「会社では、障害者は雇っていられない」。13年勤めた会社で告げられた、この「い」が、いまも耳に残っています。それでも僕は、もう一度働ける場所にたどり着きました。
もしあなたが、視覚障害の診断を受けたばかりで「これから働き続けられるんだろうか」と眠れない夜を過ごしているなら——。
もしあなたが、視覚障害のあるご家族の就職や転職を一緒に考えているなら——。
もしあなたが、企業の人事・ダイバーシティ担当者として「視覚障害のある社員と、どう向き合えばいいのか」を考えているなら——。
この記事は、あなたのためのものです。
こんにちは。視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・中澤 隆(なかざわ りゅう)と申します。盲導犬シュクレと一緒に、IRONMAN(226km)のサブ11時間挑戦を続けながら、年間50回以上、学校・企業で講演しています。
でも、僕の人生は、最初からこんな道だったわけじゃありません。31歳で視覚障害者になった僕は、13年勤めた電気工事の会社から、はっきりとクビを言い渡されました。今日はその物語を、本当のところまで、まっすぐにお話します。
27歳で緑内障と診断されてから、4年。31歳でついに視覚障害B2クラスになりました。それまで僕は、電気工事の現場監督・施工管理として、13年間働いてきました。図面を読み、現場を回り、職人さんと話し、安全管理をする。やりがいのある仕事でした。
でも、視覚障害になった僕に、会社が言ってきた言葉は、こうでした。
「会社では、障害者は雇っていられない。」
遠回しじゃありません。直接、こう言われました。
13年——人生の3分の1以上を捧げた会社からの、その言葉。「雇っていられない」の「い」が、いまでも耳に残っています。怒りも、悲しみも、混乱も、全部一気に来ました。でも一番強かったのは、「もう、社会に居場所がないかもしれない」 という根本的な恐怖でした。
こんな話を、いま視覚障害の診断を受けたばかりのあなたに、僕は決して脅すために書いているんじゃありません。「そんなことが現実に起こり得る」 という事実を、当事者の言葉で、まず正直にお伝えしておきたかったんです。
クビになった僕は、まずハローワークに通いました。視覚障害者の求人を探し、相談員と話し、書類を出す。でも、応募してもなかなか進みません。「視覚障害」と書いた瞬間に、書類が止まる。
気がつくと、僕は夜になると居酒屋を回って飲み歩く生活 をしていました。昼間ハローワーク、夜は酒。これを書いて、自分を美化するつもりは全くありません。失業中の僕は、本当にどこに進めばいいか分からなかった ——ただそれだけの話です。
この時期、もし誰かに「あの頃の自分」を声をかけられるとしたら、僕はこう言いたいです。
「立ち止まっていい。でも、迷っていることを、誰か一人に正直に話してみよう。
その一人が、次の扉を教えてくれるかもしれない」
そんな僕に転機をくれたのが、「たーとるの会」 という団体でした。「たーとるの会」は、中途視覚障害者の就労支援を行う団体で、視覚障害になった後の「これからの仕事」について、当事者と支援者が一緒に考える場所です。
正直に言えば、僕は最初、ここに行くのを 抵抗 しました。「自分は当事者じゃない」「まだ自分でなんとかできる」と思っていたからです。でも、ハローワークだけでは進まない現実を前に、ようやく相談に行きました。
そこで、僕は「視覚障害者でも、学び直して、新しい資格を取って、働き続けている人たち」 がたくさんいることを知ります。これが、僕の人生を変えた瞬間でした。
もしあなたが、いま僕と同じように「どこに相談していいか分からない」 と感じているなら、まずは地域の中途視覚障害者の会や相談窓口を探してみてください。同じ立場の先輩が、必ずどこかにいます。
たーとるの会で知ったのが、筑波技術大学——視覚障害者・聴覚障害者のための国立大学です。視覚障害者でも入学でき、社会人として再び学べる道がありました。
正直なところを、ここでもお伝えします。僕が本当に行きたかったのは「情報科」 でした。視覚障害者でもプログラミングや IT で働ける時代になってきていたからです。だから、まず情報科を受験しました。
結果——落ちました。
もう一度受け直すか、別の道を選ぶか。考えた末、僕は鍼灸学科を選びました。視覚障害者にとって伝統的に開かれてきた「あん摩マッサージ指圧師」の国家資格を取れる学科です。
「本当は情報科に行きたかったのに、鍼灸学科に行った」——これは、僕の物語の中で、いまでも複雑な気持ちが残る部分です。でも、振り返ってみれば、あの時の「第二希望」が、いまの僕を作っている のは確かです。
第一希望が叶わなかったから、人生が終わるわけじゃない。
第二希望、第三希望の道で、思いがけない出会いが待っていることもあります。
筑波技術大学での4年間、僕はあん摩マッサージ指圧師の国家資格を目指して学びました。視覚障害者になってから、こうやって「もう一度、自分は学べるんだ」 と感じられたのは、本当に大きな経験でした。
そして、大学3年生の時に、人生の次の扉を開いてくれた団体 と出会います。
それが、株式会社つなひろワールド——障害者アスリートの求人・雇用支援・マネジメントを行う会社です。「あなたみたいに競技をしながら働ける場所がある」と教えてくれました。
当時の僕は、視覚障害になってからもトライアスロンを続けていて、アジア選手権で優勝するなど、競技でも結果を出し始めていました。「競技と仕事を両立する」——この発想自体が、当時の僕には新しかったんです。
つなひろワールド経由で、いくつもの企業に応募しました。でも、現実は厳しかったです。
正直に言います。年齢がいっているので、書類選考でだいたい落とされる。視覚障害があり、38歳で、職歴は電気工事の現場監督から鍼灸学科卒。普通の人事の方からは「何のために、どう採用すればいいんだろう」と思われていたはずです。
面接まで進めた数少ないチャンスでは、とりあえず一生懸命に、練習を重ねて行きました。志望動機を何度も書き直し、想定問答を作り、声に出して練習し、緊張する手を握りしめて、会場に向かった。あの頃の自分の必死さは、今でも鮮明に覚えています。
結果が出るまで、何度も 「やっぱり自分は社会で必要とされていないんじゃないか」 という思いと戦いました。でも、戦い続けたから、いまがあります。
そして、僕はサイネオス・ヘルス・ジャパン株式会社に、アスリート雇用として採用していただきました。これが、僕の人生の本当の意味での再就職 でした。
「アスリート雇用」と聞くと、特別な働き方のように感じるかもしれません。実際、僕の働き方は、こうです。
これは「働きながら、世界で挑戦できる」を実現する働き方です。一見「楽そう」に見えるかもしれませんが、競技で結果を出し続けないと続かない世界です。会社の期待に、競技で応える。それが、アスリート雇用の本質です。
もし、企業の人事・ダイバーシティ担当者の方がこの記事を読んでくださっているなら、お伝えしたいです。アスリート雇用は、CSR や寄付ではありません。会社にとっても、社員にとっても、社会にとっても、価値を生む仕組みです。
あの言葉——「会社では障害者は雇っていられない」——を言われた31歳の僕に、いまの僕が声をかけられるなら、こう言いたいです。
「君は終わりじゃない。
これから15年かけて、君は学び直して、世界で戦う挑戦者になる。
道は遠いけど、間違いなく、続いている」
視覚障害になってから、再就職するまでに、僕は 2年間の失業 と 4年間の大学 と 1年間の就職活動を経験しました。合計7年。決して短くはない時間でした。
でも、諦めなくてよかった と、心から思います。
もしいま、あなたが視覚障害の診断を受けたばかりで、「これから働けるのかな」 と眠れない夜を過ごしているなら、最後に4つだけお伝えさせてください。
「たーとるの会」のような、中途視覚障害者の支援団体・自助グループは、全国にあります。地域の社会福祉協議会、障害者就業・生活支援センターも相談に乗ってくれます。同じ立場の先輩が、必ずどこかにいます。
僕は、失業から再就職まで7年かかりました。すぐに次の仕事が見つからなくても、自分を責めないでください。学び直しや資格取得の時間は、決して無駄じゃありません。
僕は情報科に落ちて、鍼灸学科に行きました。でも、その第二希望の道 が、いまの僕を作っています。叶わなかった希望は、あなたの人生の終わりじゃありません。
働き方は、一つじゃありません。会社員、在宅勤務、アスリート雇用、フリーランス、独立——時代は変わっています。「働ける形」は、必ずあります。諦めずに、探し続けてください。
視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、学校・企業・自治体向けに講演を続けています。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
📧 つなひろワールドへお問い合わせ中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
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視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、企業の人事・CSR・ダイバーシティ担当者向けに講演しています。
テーマ:「障害のある社員と共に働くとは」「アスリート雇用の本質」「ダイバーシティを戦力に変える」
「障害があるから雇用できない」を「障害があるから活躍してもらう」へ、当事者目線でお伝えします。
あなたの「働き続けたい」という気持ちが、必ず次の道に繋がりますように。
僕の物語が、少しでもあなたの背中を押せたなら、本当に嬉しいです。