25メートルも泳げなかった僕が、いま視覚障害B2クラスで226kmのIRONMANに挑み続けています。その理由を、7つに整理してお話しします。
もしあなたが、講演会やイベントで「視覚障害のパラアスリート」を呼ぶことを検討していて、「他にもパラアスリートはたくさんいるけれど、誰を呼べばいいのか分からない」と感じているなら——。
あるいは、「パラアスリートを応援したいけれど、なぜ中澤隆を応援するのか、自分の中で言葉にしたい」と思ってくださっているなら——。
この記事は、あなたのためのものです。
はじめまして。中澤 隆(なかざわ りゅう)と申します。視覚障害B2クラスのパラトライアスリートで、2017年から講演を続け、ここ3〜4年は年間50回前後、学校・企業・自治体で登壇しています。盲導犬シュクレと一緒に活動し、IRONMAN(226kmのトライアスロン)サブ11時間(視覚障害B2クラスのギネス世界記録)への挑戦を続けています。
この記事では、僕が「普通のパラアスリート」とどう違うのか、本人の言葉で、まっすぐに7つに整理してお伝えします。背伸びも、卑下もしません。読み終わったとき、応援していただく方、講演を呼んでくださる方が、「自分の場で本当に役に立つかどうか」を、ご自身の言葉で判断できるように。少し長い手紙になりますが、最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
多くのパラアスリートは、パラリンピックでメダルを取ることが、一つの大きなゴールです。それは本当に素晴らしいことで、僕も心から尊敬しています。あの舞台に立つために、どれほどの時間と覚悟が積み上げられているか、同じ競技者として痛いほど分かるからです。
一方で、僕が向き合っているのはIRONMAN(226km)。スイム3.8km、バイク180km、ラン42.195km。これはパラリンピックの種目ではありません。だから、メダルという形で区切られたゴールはありません。あるのは、「挑み続ける」という、終わりのない一本の道です。
つまり、僕を応援していただくということは、結果ではなく、過程に賭けていただくことなんです。今年の数字や順位ではなく、来年も、その先も、靴ひもを結んで動き続けるその姿に。だからこそ、応援が長く続きます。メダルを取った瞬間に物語が完結する選手とは違って、僕は人生現役で挑み続けます。70歳になっても、まだ何かに挑んでいたい。それが僕の生き方です。
合言葉は2つ。
「ピンチはチャンス、カギは工夫」
「めんどくさいと思うときは、まず1ミリの行動」
この2つの言葉は、僕が頭で考えて作ったきれいごとではありません。27歳で緑内障と診断され、見える世界が少しずつ狭くなり、13年勤めた会社の居場所が静かに終わっていく——その全部をくぐり抜けた先で、自分の体に残った言葉です。だから、講演でこの言葉を口にするとき、僕の声には実感がこもります。そこを、信じていただけたらと思います。
多くのパラアスリートは、陸上・水泳・卓球・車椅子バスケなど、パラリンピックの種目で挑みます。一方、僕が向き合うのは IRONMAN(スイム3.8km・バイク180km・ラン42.195km=合計226km)。これはパラリンピックの種目ではありません。
正直に打ち明けると、僕はトライアスロンを始めた頃、25メートルも泳げませんでした。バイクも、1キロ漕いだだけで膝が痛くなる体でした。そんな人間が、視覚障害B2クラスで226kmに挑み続けている。「メダルを取って終わる」物語ではなく、「世界一過酷と言われるレースに、見えにくい体で挑み続ける」物語です。
この物語は、企業や学校で「結果ではなく、挑戦そのもの」を伝えたい方にこそ響きます。うまくいくか分からないことに、それでも一歩を出す——その姿が、聞いてくださる方ご自身の明日の一歩に重なるからです。
多くの視覚障害アスリートは、先天性、もしくは若い時期から障害があります。僕は違います。27歳で緑内障と診断され、31歳で視覚障害B2クラスになりました。それまでは「普通に見えていた人生」でした。電気工事の現場監督として、図面を見て、現場を回っていました。
最初の異変は、天井の照明の周りが虹色に見えたことでした。目の奥が痛くて、霞んで、頭痛がする。病院で「緑内障です」と言われたとき、僕の感想は「へ〜、そんな病気があるんだ」という、驚くほど軽いものでした。本当に怖くなったのは、その後、自分でパソコンを調べて「一度失った視野は、二度と戻らない」と知った夜です。医者の言葉ではなく、画面の前でひとり、本当の意味を知りました。
だからこそ、聞き手——特に健常者の方——は、僕の話を「自分にも起こり得ること」として聞いてくださいます。「他人事」ではなく「自分事」として届く。昨日まで当たり前だったものが、今日には当たり前でなくなる。その感覚を、当事者の言葉で語れることが、途中から見えなくなった僕の強みです。
視覚障害が進むなかで、僕の仕事は少しずつ削られていきました。図面の細かい字が見えなくなる。図面を見るのが仕事なのに、その図面が見えない。現場から内勤に移り、見積もりや図面のチェックをするようになっても、1回で済んでいた確認が、2回、3回と増えていきました。「早くしなきゃ」と焦るほど、手が止まる。昨日できたことが、今日できない。悔しくて、情けなくて、誰にも言えませんでした。
そして31歳のとき、やる仕事が減り続けた先で、「このまま続けるのは難しいよね」と告げられました。事実上の退職です。18歳から13年、ここが自分の居場所だと信じていた場所が、静かに終わりました。あの絶望は、今でも鮮明に思い出せます。
この経験は、企業のダイバーシティ研修・障害理解講演で、担当者と社員の心にまっすぐ届きます。「障害のある社員が、働き続けられる職場とは何か」を、きれいごとではなく、削られていく側の痛みとして語れる講演者は、そう多くありません。
退職後、目の前は真っ暗でした。そんなとき、相談していた方の「大学、行ってみたら?」という一言が、僕の背中を押しました。それまで勉強も運動も苦手で、学生時代の成績は「1が2つ」あるような人間です。その僕が、30代で人生初の大学受験をして、鍼灸を学ぶ大学に入り直しました。
大学では、単位を1つ落とせば留年という緊張感のなかで、毎日必死でした。国家資格の試験では、鍼師・灸師は不合格。でも、あん摩マッサージ指圧師には合格しました。あの合格は、僕にとって「まだ自分は終わっていない」という、自分への証明でした。
今は、ある企業にアスリート雇用として所属しながら、競技と講演を続けています。つまり僕は、「障害がありながら働く社員」としての目線と、「世界に挑む競技者」としての目線、その両方を当事者として持っています。「制度の話」ではなく「中で働く人間のリアル」を伝えられる、希少な講演者だと自負しています。
パラアスリートで 盲導犬と一緒に活動している選手は、極めて少数です。僕の相棒は、ラブラドール・レトリバーの シュクレ。名前はフランス語で「砂糖・甘い」、シュークリームの「シュー」から来ています。シュクレは2頭目の盲導犬で、初めて出会ったのは、1頭目のデネブが引退する日でした。別れと出会いが、同じ日に重なったのです。
訓練士さんからは「ちょっと繊細な子です」と紹介されました。ところが初日からお腹を見せて寝転がる、いわゆる「へそ天」。心の中で「どこが繊細だよ!」と笑ってしまいました。そんな大胆な相棒です。
シュクレがいると、講演の現場が変わります。子どもたちは目を輝かせ、企業の方は「信頼で結ばれた関係性」を、言葉ではなく肌で感じてくださいます。盲導犬は「障害者の道具」ではなく、毎日をともに歩くパートナーなのだと、シュクレは存在そのもので伝えてくれます。
多くのアスリートは、「世界記録を更新する」というはっきりしたゴールを持ちます。素晴らしいことです。でも、その瞬間に物語が一区切りつくのも事実です。
僕が向き合うのは、IRONMAN サブ11時間のギネス世界記録への挑戦。2024年は13時間14分17秒でPCクラス3位、2025年は15時間08分45秒。正直に書きます。世界記録までには、まだ大きな差があります。来年その差を一気に縮められる保証なんて、どこにもありません。
それでも僕は、「いつか必ず」を目指し続けます。たどり着いても、まだ途中でも、挑み続けることそのものが物語だからです。だから、応援が長く続きます。スポンサーになってくださる企業も、一度きりの結果に乗るのではなく、「挑戦を一緒に作る仲間」として、長く関係を続けていただけます。これは、結果で区切れるブランドにはない強みです。
視覚障害B2クラスで IRONMAN を完走できたのは、僕の力だけではありません。ガイドトライアスリート、コーチ、トレーナー、家族、所属企業、応援者、そして盲導犬シュクレ——たくさんの人と存在に支えられた結果です。
トライアスロンを始めた頃、僕は「助けてもらう側」になることが、情けなくて仕方ありませんでした。ガイドと伴走ロープ1本でつながり、タンデム自転車で前と後ろの役割を分け合う。その日々のなかで、ようやく気づいたんです。ガイドは「助けてくれる人」ではなく、同じゴールを目指す対等なチームなのだと。あの気づきが、僕の競技観も人生観も変えました。
だから僕の挑戦は「みんなで作る挑戦」です。応援してくださる方には、お金や時間を差し出していただくだけでなく、「物語の登場人物のひとり」になっていただきます。僕が一方的に与えるのではなく、同じ輪の中で一緒に挑む仲間として迎え入れる。それが、僕の応援の作法です。
| 項目 | 普通のパラアスリート | 中澤 隆 |
|---|---|---|
| 競技 | パラリンピック種目 | IRONMAN 226km(非パラ種目) |
| 見えなくなった時期 | 多くは先天性・若年期 | 27歳緑内障→31歳B2(途中から) |
| 本業 | 競技専念 or 一般就労 | 講演 年50回前後+アスリート雇用 |
| 物語の軸 | 結果・記録 | 「挑み続ける」過程 |
| 同伴者 | 単独 or ガイド数名 | 盲導犬シュクレ+複数ガイド体制 |
| 講演の言葉 | 「諦めない」「夢を持とう」 | 「めんどくさいと二人三脚」「1ミリの行動」 |
| 応援される理由 | 結果 | 過程(挑み続ける姿) |
先日も、ある中学校で講演をさせていただきました。終わったあと、生徒さんからは「好きなアニメは?」「見えない中での工夫は?」といった、「人」そのものへの質問がたくさん来ました。一方、先生方からは「シュクレとの出会いは?」「苦しい練習をどう乗り越えるか」「障害のある人に出会ったらどうすればいいか」という、「障害と社会」への質問が多く寄せられました。同じ話を聞いても、子どもと大人で響くところが違う。だからこそ僕は、テーマを「挑戦」「障害理解」「ダイバーシティ」「盲導犬と歩む人生」「工夫が速さになる(仕事への応用)」など、対象者と狙いに合わせて毎回カスタマイズしています。
もしあなたが、僕の挑戦を「応援したい」と思ってくださっているなら、本当にありがとうございます。その気持ちが、僕が毎朝早くに起きて動き出すための、確かな燃料になっています。
応援の形は、いろいろあります。
どんな形でも、僕にとって本当にありがたい支えです。応援は「お金の額」では測れません。記事を一つ読んでくださること、誰かに「こんな人がいるよ」と話してくださること。その一つひとつが、繋がる輪の中で、僕を前に進めてくれます。一緒に物語を作っていただくこと——それが何より嬉しいです。
視覚障害B2、IRONMAN完走、年50回前後の講演——こうして並べると、なんだか「特別な人」のように見えるかもしれません。でも、本当のところは、まったく違います。
僕は学生時代、徒競走はいつもビリか、ビリから2番目でした。好きな子に告白する勇気もなく、「どうせ相手にされない」と決めつけて逃げる、そんな子どもでした。25メートルも泳げなかったし、勉強も苦手でした。特別な才能なんて、何ひとつ持っていません。
今の僕がやっているのも、本当はとても地味なことです。毎朝「めんどくさい」と戦いながら、靴下を履いて、玄関まで行って、まず5分だけ動く。それを積み重ねてきただけです。テレビで全盲の女の子がトライアスロンをしている映像を見て、「僕はまだ見えている。だったら、僕にもできるかもしれない」と、ほんの少し体を動かしてみた。あの1ミリが、今日まで続いているだけなんです。
もしこの記事を読んでくださっているあなたが、何かに挑戦している最中なら、あるいは、これから一歩を踏み出そうとしているなら——僕は、繋がる輪の中で心から応援しています。
挑戦するのに、特別である必要はありません。
必要なのは、最初の "1ミリの行動" だけです。
「中途失明」「挑戦」「不安があっても前に進む力」をテーマに、2017年から講演を続け、ここ3〜4年は年間50回前後で登壇しています。学校・企業・自治体問わず、対応可能です。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
📧 つなひろワールドへお問い合わせ中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
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RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
盲導犬シュクレと共に、人生現役で挑み続ける