「中学校の頃から、ずっと好きでした」。声が震えていました。20年以上飲み込んだままだった言葉を、36歳の僕は、街で偶然再会したその人に、やっと口に出しました。
もしあなたに、言えないまま飲み込んだ言葉があるなら——。
もしあなたが、「人生のチャンスはもう来ない」と思いかけているなら——。
もしあなたが、大事な場面でいつも一歩引いてしまうなら——。
この記事は、あなたのためのものです。
こんにちは。視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・中澤 隆(なかざわ りゅう)です。盲導犬シュクレと暮らしながら、IRONMAN(226km)のサブ11時間挑戦と、年間50回前後の講演を続けています。
今日は、トライアスロンの話ではありません。でも、僕の人生でいちばん大きな「一歩踏み出した話」です。講演でもよく話していて、聞いてくださった方が帰り際に「あの恋の話、よかったです」と声をかけてくれる、そんなエピソードです。少し長くなりますが、よかったらお茶でも飲みながら、手紙を読むみたいに、ゆっくり付き合ってもらえたら嬉しいです。
中学校のとき、好きな女の子がいました。
同じクラスでも、特別なにかがあったわけじゃありません。ただ、その子が笑うと教室がぱっと明るくなる気がして、僕はいつも遠くから目で追っていました。話しかけたい。でも、できない。隣の席になれたらいいのに、と思いながら、いざ近くにいると、緊張して、当たり障りのないことしか言えませんでした。
当時の僕は、運動も勉強も苦手でした。成績は「1が2つ」あるような子で、徒競走はいつもビリか、ビリから2番目。自分に自信なんて、これっぽっちもありませんでした。だから、好きな子を前にすると、頭の中で勝手にこう言う声がしたんです。
「お前なんかが、相手にされるわけがない」
その声に、僕はいつも負けていました。
結局、好きだという気持ちは、ひとことも言えないまま。卒業して、その子とも会わなくなって、初恋は飲み込んだ言葉のまま、僕の中でそっと終わったはずでした。
あのころの僕の問題は、たぶん「告白できなかったこと」そのものじゃありません。
本当の問題は、やってみる前に、自分で答えを決めてしまうクセでした。
「どうせ相手にされない」。
「どうせ自分には無理だ」。
「どうせ失敗する」。
「どうせ」という言葉で、挑戦する前に自分でシャッターを下ろす。そうすれば、傷つかなくて済みます。失敗もしません。だって、最初からやっていないんですから。
でも、いま振り返ると分かります。あれは「傷つかない方法」じゃなくて、「何も手に入らない方法」だったんです。挑戦しなければ失敗もしないけれど、その代わりに、うれしいことも、つながりも、ぜんぶ取りこぼしていく。中学生の僕は、安全な場所で、静かにいろんなチャンスを見送っていました。
もしかしたら、これを読んでくださっているあなたの中にも、似た「どうせ」がありませんか。言いたいのに言えない。やってみたいのに、最初の一歩が出ない。僕には、その気持ちが痛いほど分かります。20年以上、僕もずっとそっち側の人間だったからです。
そして、ここがいちばん怖いところなんですが、「どうせ」は一回使うと、クセになります。一度シャッターを下ろして「ほら、傷つかずに済んだ」と思うと、次もまた下ろす。下ろすたびに、その手つきは滑らかになっていく。気づけば、考えるより先に、もう下ろしている。中学生の僕は、まさにそうでした。好きな子のことだけじゃなくて、手を挙げて発表すること、部活で前に出ること、いろんな小さな場面で、僕は反射的に「どうせ」を選んでいたんです。
それから、20年以上の時間が流れました。
その間に、僕の人生はずいぶん変わりました。27歳で緑内障と診断され、少しずつ視野が狭くなっていきました。図面を見る仕事をしていたのに、その図面の細かい字が見えなくなっていく。13年勤めた会社を離れることになった日もありました。31歳で視覚障害者になり、夜になるのが怖くて——眠って朝起きたら、もっと見えなくなっているんじゃないかと——布団の中で天井を見つめていた時期もありました。
そんな僕を外に連れ出してくれたのが、トライアスロンでした。きっかけは、テレビで全盲の女の子がトライアスロンをしている映像を見たことです。「僕より見えない子がやっている。僕はまだ見えている。だったら、僕にもできるかもしれない」。その夜、画面の前で動けなくなって、気づいたら涙が出ていました。
始めてはみたものの、最初は25メートルも泳げませんでした。1キロ走ったら膝が痛くなりました。それでも、ガイドの方やコーチに支えられて、伴走ロープ1本の信頼を頼りに、1ミリずつ前へ進んできました。少しずつ泳げる距離が伸び、走れる距離が伸び、やがてレースを完走できるようになり、世界の舞台にも立たせてもらえるようになりました。「どうせ無理だ」と思っていた人間が、です。
36歳の僕は、もう「どうせ相手にされない」と布団の中でうずくまっていた中学生では、なくなっていました。見た目には、です。心の奥に、あの「どうせ」が完全に消えていたかというと、正直、まだ分かりませんでした。試される機会が、なかっただけなのかもしれません。
その機会は、本当に突然、向こうからやってきました。
ある日、僕は街を歩いていました。本当に、なんでもない一日でした。
そこで——偶然、彼女と再会したんです。中学のとき、ひとことも気持ちを言えなかった、あの初恋の人と。
20年以上ぶりでした。声を聞いた瞬間、一気にあの教室の空気がよみがえってきて、心臓が変な打ち方をしたのを覚えています。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせながら、近況を話しました。お互いの「あれから」を、ぽつぽつと。
そして、僕がトライアスロンをやっていること、目が見えにくくなっていることを話したとき、彼女がこう言ったんです。
「えっ…目が見えにくいのに、トライアスロンやってるの?すごい!」
その「すごい!」が、ただのお世辞じゃなくて、心から驚いて、まっすぐ向けられた言葉だというのが、声の温度で分かりました。
その瞬間、僕の心の中で、はっきりとスイッチが入ったんです。
「今なら、言えるかもしれない」
20年以上、飲み込んだままだった言葉が、胸の奥からせり上がってくるのを感じました。もちろん怖かったです。中学のときと同じ「どうせ」の声も、ちゃんと聞こえてきました。「いい大人が、なにを言ってるんだ」「断られたら、この再会ごと気まずくなるぞ」と。
でも、今回はその声に、負けたくありませんでした。
僕は、勇気を出して言いました。声が震えていたと思います。
「中学校の頃から、ずっと好きでした。よかったら、付き合ってもらえませんか」
言い終えた瞬間、頭が真っ白になりました。20年以上ぶりに口に出した気持ちです。たった二行の言葉なのに、ここまで来るのに、僕は半分の人生を使いました。
——そして。
彼女が、彼女になってくれました。
うまく言葉にできませんが、目の前がぱっと明るくなったような、長く止めていた息をようやく吐き出せたような、そんな感覚でした。中学生の僕が飲み込んだまま、ずっと胸の底に沈めていた言葉が、20年以上の時を超えて、ちゃんと相手に届いた。届いて、しかも、受け取ってもらえた。
そして2020年、僕はプロポーズをして、結婚することができました。あの教室で遠くから見ていた人が、今は人生をいっしょに歩いてくれる、僕の妻です。
ここで、ひとつ考えてみたいことがあります。
中学の僕は言えなかった。36歳の僕は言えた。この20年で、何が変わったんでしょうか。
度胸がついたから? 性格が、生まれ変わったから?
——違うと思います。僕は今でも、根っこのところは緊張しいで、心配性で、「どうせ」の声が聞こえてくる人間です。あの声が消えたわけじゃありません。
変わったのは、その声との付き合い方でした。
36歳の僕には、トライアスロンがありました。25メートルも泳げなかったところから、1ミリずつ積み上げて、いつのまにかレースを完走できるようになっていた。膝が痛くて1キロも走れなかった脚で、長い距離を走り切れるようになっていた。その経験を通して、僕の体は、ひとつのことを覚えていたんです。
「怖くても、小さく踏み出せば、世界は動く」
これを、頭で理解していたんじゃありません。何度も何度も、震えながら一歩を出して、そのたびに少しだけ前に進む——それを繰り返すうちに、体の方が先に覚えてしまっていたんです。
だから街で再会して「どうせ」の声が聞こえたとき、僕の体は、こう反応しました。「いや、その声、何度も聞いた。聞いたけど、踏み出したら毎回ちゃんと進んだじゃないか」と。練習でしてきたことを、人生のいちばん大事な場面で、もう一度やっただけ。それが、20年越しの告白の正体でした。
挑戦は、競技の中だけのものじゃありませんでした。競技で覚えた一歩の踏み出し方が、まったく別の場面で、そっと僕の背中を押してくれた。スイムでもバイクでもランでもない、人生という名前のいちばん長いレースで。
あれから、僕たちの生活が始まりました。
視覚障害があると、毎日のなかに、ひとりでは少しだけ難しいことがいくつもあります。そのひとつが、服を選ぶことです。色の組み合わせが合っているか、シミやほつれがないか、季節に合っているか——細かいところが、自分では確かめきれません。
そこを、毎朝、妻が選んでくれます。「今日はこれね」と渡してくれる一着で、僕は安心して家を出られる。講演の日も、レースの遠征の日も、その一着が背中を押してくれます。(服選びの工夫についてはこちらの記事に書きました)
支えてもらっているのは、服のことだけじゃありません。挑戦を続けるうえで、いちばん近くで見守ってくれているのが、妻です。うまくいった日も、思うようにいかなかった日も、変わらずそこにいてくれる。その存在が、どれだけ大きいか。中学生のあの日、もし僕が「どうせ」に負けたままの人生を歩いていたら、この毎日は、丸ごと無かったかもしれません。
不思議なものです。中学のとき、遠くから見ているだけで、ひとことも声をかけられなかった人。「自分なんかが」と思って、最初からあきらめていた人。その人と、今こうして、同じ食卓を囲んでいる。朝、玄関で「いってきます」と言える相手がいる。20年以上前の僕に「お前、いつかその子と結婚するよ」と教えてあげても、たぶん信じなかったでしょう。「どうせ、そんなうまい話があるわけない」と笑ったはずです。でも、起きたんです。飲み込んでいた言葉を、一度、口に出しただけで。
そう思うと、あのとき震えながら口にした一言は、僕の人生でいちばん価値のある一歩だったと、今ははっきり言えます。
長い手紙になりました。最後に、僕がこの話で伝えたいことを、ひとつだけ。
怖くても、恥ずかしくても、一歩踏み出して言葉にしたら、人生が動くことがある。動かないこともあるかもしれない。でも、飲み込んだままなら、何も起きないことだけは、確かなんです。
あなたにも、飲み込んだままの言葉が、ひとつくらいあるんじゃないでしょうか。好きだという言葉かもしれないし、ありがとうかもしれないし、ごめんね、かもしれない。あるいは、「助けてほしい」のひとことかもしれません。
その言葉、まだ間に合うかもしれません。
僕は20年以上かかりましたが、間に合いました。だから、あなたのその言葉も、きっとまだ遅くないと思うんです。
そして、大きな勇気じゃなくていいんです。僕がしたのも、25メートル泳げるようになったのと同じ「1ミリの一歩」でした。いきなり完璧にやろうとしなくていい。ほんの少し、いつもより前に踏み出すだけ。それで十分、世界は動き始めます。
中学の僕が飲み込んだ言葉を、36歳の僕が言えた。1ミリずつ進む練習は、人生の本番でこそ効く。チャンスは、競技の中だけにあるわけじゃありません。
あなたの飲み込んだ言葉が、いつか、ちゃんと届きますように。僕も、これからも1ミリずつ、踏み出し続けます。
2026年9月13日、IRONMANジャパンみなみ北海道(225.8km)に挑みます。この挑戦は、支えてくれる人たちと一緒に作る物語です。日々の練習やレースの様子を発信しているので、そばで見届けてもらえたら嬉しいです。
中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
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RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
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