がんばったのに、結果が出なかったことはありませんか。
サボったなら、まだ分かる。でも、やることはやった。それでも、届かなかった。
もしあなたが、「努力が足りなかったんだ」と、今も自分を責めているなら。
もしあなたが、勉強が分からない子どもを、そばで見ている大人なら。
もしあなたが、がんばっても止まらないものと、向き合っている途中なら。
この記事は、そんなあなたに向けて書きます。
こんにちは。中澤隆(なかざわ りゅう)です。
視覚障害のB2(ビーツー)というクラスで、パラトライアスロンをしています。盲導犬のシュクレと暮らしています。
今日は、子どもの頃の勉強の話です。
実は僕には、小学5年から高校を卒業するまで、ずっと家庭教師の先生がついていました。8年ほどです。
理由は、シンプルです。
学校の授業に、ついていけなかったから。
小学1年の頃は、丸がうまく描けませんでした。線の始まりと終わりが、つながらないんです。描けるようになったのは、たぶん小学2年の頃です。
同級生にも、まわりの大人にも、「のび太君」と言われていました。みんな、笑っていました。
小学校の通知表は、3段階で、ほとんどが1か2。「3」がつくのは図工と音楽くらいで、それも、たまにでした。
九九は、夏休みに母と特訓しました。鉛筆で頭をつつかれながら、何度も言い直した記憶があります。
「もう一回、いってみようか」
母のその声に合わせて、また頭から言い直しました。
そして小学5年から、家庭教師の先生が来るようになりました。
それが、中学でも、高校でも、続きました。
ゲームで言えば、8年間ずっと、仲間についてもらいながらレベル上げをしていたようなものです。
つまり、勉強を、いつも誰かに手伝ってもらいながら進めていた、ということです。
家庭教師を8年つけ続けるというのは、親にとっても決して小さなことではなかったはずで、それを当時の僕は、たぶん、家の中のいつもの景色のひとつとして受け取っていたんだと思います。
昔の自分のことを話すとき、「勉強をしない子だった」と言ってしまいそうになります。
でも、それは正確ではありません。
授業は、聞いていました。
聞いていたけれど、分からなかった。
先生の声は、ちゃんと耳に入ってくる。でも、それが分かるところまで、届かない。
今思えば、学習障害(LD)や、多動のような特性が、あったのかもしれないと思っています。
ただ、診断は受けていません。だから、ここで「そうだった」とは書きません。
「今思えば、そうだったのかもしれない」。それが、僕に言えるいちばん正直なところです。
はっきりしているのは、ひとつだけです。
サボっていたから分からなかったわけではない、ということで、そのことを僕は、ずいぶん大人になってから、やっと自分の言葉で言えるようになりました。
中学3年。高校を選ぶ時期が来ました。
僕は、高校を調べる本で、ある高校を知りました。園芸科のある高校です。
見学会にも、行きました。
中学2年からの部活は、農園部でした。なすや、きゅうりを育てていました。
受験の前に、母に言われた言葉があります。
「定時制高校でも、良いんだよ」
この言葉の意味を、ここで決めつけるのはやめておきます。
ただ、小学5年から家庭教師をつけ続けてきたのは、その母です。ずっと手を尽くしてきた人の言葉です。
「これ以上、無理をしなくていいよ」。そういう気持ちも、どこかに入っていたのかもしれません。
親の言葉は、そのときにはただの一言でも、何十年もたってから、言った人がそれまでにしてくれたことと一緒に思い出すと、まったく違う重さで聞こえてくることがあるんだと、僕はこの一言で知りました。
受験に向けて、家庭教師の先生と一緒に勉強しました。
やることは、やりました。
結果は、郵便で届きました。
不合格でした。
受験は、ゲームで言えばボス戦です。
つまり、それまで積み上げてきたものが、一度の試験で試される場所だった、ということです。
僕は、そのボス戦で、届きませんでした。
封を開けた瞬間のことは、ここでは書きません。書けるのは、届いたという事実と、そのあとにかけられた言葉だけです。
8年近く手伝ってもらって、自分なりにもやって、それを全部のせても届かない場所がある。15歳の僕は、そのことを、一通の郵便から知ることになりました。
不合格を知った僕に、親はこう言いました。
「しょうがないね。滑り止めで頑張りなさい」
責める言葉は、ありませんでした。
ゲームオーバーではなく、コンティニュー。
つまり、ここで終わりではなく、別の道から続きを始めなさい、ということです。
こうして僕は、滑り止めの工業高校に進みました。男子校で、1クラスはおよそ50人。2年生から、電気科・電子科・機械科などに分かれていく学校でした。僕は、電気科に進みました。
大学に進むための「特選科」という学科もありましたが、学生のおよそ8割は、卒業したら就職する学校でした。僕も、その8割の側でした。
高校でも、家庭教師の先生は続いていました。
そして高校の3年間、僕は赤点を一度も取りませんでした。
それは、僕の力だけではありません。8年間そばで支えてくれた家庭教師の先生と、それを続けてくれた親がいたからです。
留年しないで、卒業しました。
行きたかった高校の門はくぐれなかったけれど、「しょうがないね」と言ってもらえたあの日から、僕は滑り止めの高校の3年間を、支えてくれる人たちと一緒に、最後まで通いきることができました。
この話を、どうして今書くのか。
やったのに、届かない。その形が、僕の人生に、もう一度やってきたからです。
27歳で、緑内障と診断されました。目薬をさしました。飲み薬も飲みました。手術も、何度も受けました。
それでも、見える範囲は少しずつ狭くなっていきました。
31歳で、視覚障害者になりました。
サボったから、見えなくなったわけではありません。やることはやって、それでも止まらなかった。
15歳の郵便と、27歳からの目のこと。並べてみると、同じ形をしています。
やったのに、届かない。でも、そこで終わりではない。
工業高校で電気を学んだ僕は、18歳で電気工事の現場監督になりました。目が見えにくくなったあとは、31歳でトライアスロンを始めて、2026年9月には、IRONMAN JAPANを14時間43分54秒で完走しました。
行きたかった道には入れなかったけれど、入れた道のほうを歩いていった先に、ちゃんと今の僕がいて、今日もシュクレと一緒に歩いています。
がんばったのに、結果が出なかった。
そのとき、「努力が足りなかった」と自分を責めるのは、少しだけ待ってください。
やっても届かないことは、あります。それは、あなたがサボったという意味ではありません。
もしあなたが、勉強の分からない子どものそばにいるなら。「ちゃんと聞いてるの?」と言う前に、「聞いていても、分からないのかもしれない」と、一度だけ思ってみてください。
そして、届かなかった日には、「しょうがないね。次の道で頑張りなさい」と言ってあげてください。僕の親が、僕にそうしてくれたように。
届かなかった場所の先にも、道は続いています。
見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。
家庭教師の先生がいて、親がいて、今はガイドや仲間やシュクレがいて、僕はずっと誰かに支えられながら、届かなかった日も、届いた日も全部ひっくるめて、ここまで進んできました。
視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、学校・企業・自治体向けに講演を続けています。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
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視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、盲導犬シュクレと一緒に学校・企業で講演しています。
テーマ:「挑戦」「障害理解」「盲導犬と歩む人生」「ダイバーシティ」
「見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける」——その旅の話を、そのままお届けします。
中澤 隆(なかざわ りゅう)/視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・講演家。18歳から電気工事の現場監督として働き、27歳のときに緑内障と診断されました。31歳でトライアスロンを始め、IRONMANは2024年に13時間14分17秒(PCクラス3位)、2026年9月のIRONMAN JAPANみなみ北海道を14時間43分54秒(PCクラス2位)で完走。盲導犬シュクレと暮らしながら、学校・企業・自治体で講演を続けています。