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📅 2026.10.07(更新 2026.10.10) | RYU NAKAZAWA
📖 物語・哲学

30年後に、中学の通知表を読み返した|飛ばないシャトルも、校庭の隅の畑も、先生は見ていた

⏱ 約7分で読めます(4,320字)

30年ぶりに開いた3枚の通知表に書かれていたのは、僕が覚えているのとは、別の子どもでした。

もしあなたが、自分の子ども時代を「なにもできなかった」とまとめているなら——。

もしあなたが、自分にだけ、ずっと低い点をつけて生きてきたなら——。

もしあなたが、今まさに、子どもの通知表を書いている先生や、読んでいる親御さんなら——。

この記事は、あなたのためのものです。

こんにちは。視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・中澤 隆(なかざわ りゅう)です。盲導犬シュクレと暮らしながら、IRONMAN(226km)のサブ11時間挑戦と、年間50回前後の講演を続けています。

今日は、中学3年分の通知表を読み返した話をします。僕の記憶と、先生が残した記録が、どれくらいずれていたか、という話です。少し長くなりますが、手紙を読むつもりで、最後までお付き合いいただけたらうれしいです。

レース会場でタンデム自転車と中澤隆

もしあなたが、自分の子ども時代を「なにもできなかった」とまとめているなら。

もしあなたが、途中で何かを辞めた記憶を、まだ引きずっているなら。

もしあなたが、子どもの通知表を書いている先生や、読んでいる親御さんなら。

この記事は、あなたに向けて書いています。

僕は中澤隆(なかざわ りゅう)です。視覚障害のB2というクラスで、パラトライアスロンをしています。盲導犬のシュクレと暮らしています。

今日は、中学3年分の通知表を、30年ぶりに読み返した話です。

📖 この記事の目次
  1. 「なにもできない子」だったはずの3年間
  2. 中学1年、シャトルが飛ばない
  3. 中学2年、部員が僕だけの農園部
  4. 「この姿勢を忘れないで欲しい」
  5. 中学3年、欠席が10日から2日に
  6. 記憶は自己採点、記録は他人の目
  7. 結果が出ないものを、出ないまま続ける
  8. 今、子どもを見ている大人へ

「なにもできない子」だったはずの3年間

まず、僕が自分の中学時代をどう覚えているか、先に書いておきます。

勉強は、できなかった。運動も、できなかった。

部活は、1年で辞めた。好きな子には、何も言えないまま卒業した。

ひとことでまとめると、「なにもできない子」です。

中学の3年間、僕はずっとレベル1のままだったと思っていました。

つまり、何ひとつ伸びなかった3年間だと、自分で決めていた、ということ。

大人になってからも、中学のことを聞かれたら、だいたいそう答えていました。

その3年間の通知表が、3枚、残っていました。

開いてみて、静かに驚きました。そこに書かれていたのは、僕が30年間覚えていたのとはまるで別の、ちゃんと毎日を生きている子どもだったからです。


中学1年、シャトルが飛ばない

中学に入って、バドミントン部に入りました。

理由は、「なんとなく」です。好きだったわけでも、憧れの選手がいたわけでもない。まわりが部活を決めていく空気の中で、気づいたら体育館の入口に立っていました。

始めてすぐ、分かりました。僕の打ったシャトルは、飛ばない。

ラケットを振る。当たる。でもシャトルは、ネットの手前でふわりと力を失って、床に落ちる。

落ちるときの、あの小さな音が、体育館の中で、自分の足元でだけ何度も繰り返し鳴っているような気がしていました。

隣のコートでは、同じ日に始めた子のシャトルが、奥のラインまで飛んでいきます。

同じラケット。同じシャトル。同じ日数。……なのに、僕のだけ飛ばない。シャトルにまで見放されたのか。

そのうち、答えが出ました。「僕には、向いてない」。

2年生になるとき、部活を辞めました。誰かに追い出されたわけではありません。自分で出した結論に沿って、静かに手を離しました。

そのときの気持ちは、はっきり覚えています。「また、続かなかった」。

30年後。中学1年の通知表には、こう書いてありました。

「部活動では、大変よく努力していました。理科係の仕事もしっかりと行っていた様です。」

学年の終わりには、こうです。

「進級おめでとう。一年間よく努力しました。」

何秒か、意味が入ってきませんでした。僕の記憶にあるのは、飛ばないシャトルと、床に落ちる音と、「向いてない」という結論だけです。

でも先生は、飛ばないシャトルを、それでも毎日打っていた1年間を見ていました。


中学2年、部員が僕だけの農園部

2年生から入ったのが、農園部でした。

場所は、校庭の隅です。校舎から歩いていく途中で、だんだん人の声が遠くなる、そういう場所でした。

そして、部員は僕だけでした。先輩もいない。後輩も入ってこない。

大会もありません。試合も、順位表もない。

ここには、ゲームオーバーがありませんでした。

つまり、誰かと比べられて「負け」と決まることが、ひとつもない場所だった、ということ。

育てていたのは、なす、ゴーヤ、きゅうり、いもです。

土は、水をやると色が変わります。乾いているときは白っぽくて、水を吸うと黒くなって、匂いが立つ。

ホースの水がぶつかる音と、遠くの部活のかけ声。それが、僕の放課後の音でした。

植物は、正直です。水をやらなければ、しおれる。世話をすれば、そのぶん大きくなる。

収穫したものは、家に持って帰りました。台所に出すと、母が「よく育てたね」と言っていたと思います。

テストの点数を持って帰る日は、渡す前から下を向いていましたが、なすを持って帰る日は、袋の重さのぶんだけ、まっすぐ台所まで歩けました。

当時の僕は、こう思っていました。ここは、誰にも見られていない場所だ、と。


「この姿勢を忘れないで欲しい」

中学2年の1学期。通信欄には、こう書いてありました。

「おおらかな性質の持ち主であり、毎日楽しそうに生活しています。遅くまで校庭の草花の手入れをしていた姿が印象的でした。この姿勢を忘れないで欲しいと思います。」

「遅くまで校庭の草花の手入れをしていた姿」。

僕が「誰にも見られていない」と思っていた、あの放課後のことです。

担任は、見ていました。見ていただけでなく、紙に書いて残していました。

しかも書かれていたのは、収穫の量ではありません。「この姿勢を忘れないで欲しい」。成果ではなく、姿勢のほうでした。

2学期には、こうあります。

「遠足の実行委員会や学芸発表会で、一つのことを粘り強く取り組む姿をみることができました。さらなる活躍を期待します。」

3学期は、こうです。

「進級おめでとう。球技大会のバスケットボールでは、コートの中を元気に走りまわり、ボールを追っていた姿に力強いものを感じました。」

ここで、手が止まりました。

運動ができない子だと思っていた自分です。体育の時間は、早く終わってほしいと思っていた。その僕が、コートの中を元気に走りまわっていたことになっています。

……え、誰の話? と思いました。僕の話でした。

「粘り強く」も「力強いもの」も、僕がこれまで自分に向かって一度も使ったことのない言葉で、それが30年前の紙の上に、先生の字で、当たり前のように並んでいました。


中学3年、欠席が10日から2日に

中学3年で、通信欄より先に目が行ったのは、出欠の欄でした。

1年で、欠席が10日から2日に減っています。

この数字は、まったく覚えていませんでした。「学校に行くのがつらかった」という記憶のほうが強いからです。でも記録の上では、僕は3年生のあいだ、ほぼ毎日そこにいました。

係の欄も見ました。理科、英語、技術、理科、社会科、技術。3年間、前期も後期も、空欄がありません。

どれも、目立つ役ではありません。教室の後ろで、誰かがやらなければならない仕事を、半年ごとにずっと引き受けていた、というだけのことです。

いいことばかり、ではありません。中学3年の1学期には、こうも書いてあります。

「情緒的には安定していましたが、学校生活では、意欲の面であと一歩欲しい所です。当番活動や提出物などに充分気を付けて…基礎的な部分の反復学習しっかり!」

厳しいことも、ちゃんと書いてある。でもこれも、その子をあきらめていない人の書き方だと、今は思います。

そして卒業のときは、こうでした。

「卒業おめでとう。高校生活も努力の連続です。目標を持って、がんばろう。」

「努力の連続」というその一行は、そのあとの僕の人生を、30年かけて、ずいぶん正確に言い当てていたように思います。


記憶は自己採点、記録は他人の目

3枚を読み終えて、はっきりしたことがあります。

僕の記憶は「自己採点」で、通知表は「他人が見ていた記録」だった、ということです。

自己採点のほうは、結果だけを見ていました。シャトルが飛んだか。点数は何点か。速かったか。

そこが下のほうだったから、僕は自分に「なにもできない子」という点をつけて、それを30年持ち歩いていました。

記録のほうは、過程を見ていました。

ずれていたのは、記録ではなく、僕の自己採点のほうでした。

辞めた事実は、変わりません。でも「辞めた」と「努力していなかった」は、別のことだったんです。

自分にだけ厳しい点をつけて、その点数を「事実」だと思い込んでいたあいだも、もう一枚の事実はちゃんと紙に残っていて、僕はそれを30年間、開けずに持っていただけでした。


結果が出ないものを、出ないまま続ける

もうひとつ、あとになって効いてきたことがあります。

飛ばないシャトルを打っていた体育館。部員が僕だけの、校庭の隅の畑。

どちらも、結果が出ないものを、出ないまま続ける時間でした。

今日やったことは、今日は何も返ってこない。それでも、明日も行く。

31歳でトライアスロンを始めて分かったのは、競技の大部分が、まさにこの時間でできている、ということでした。

今の僕は、朝4時半から6時のあいだに起きます。泳いで、漕いで、走る。その日にやることは前の晩に決めておいて、朝は考えずに体を動かす。

誰も見ていません。褒められることもありません。

レースの結果が出るのは、年に何回かです。そのあいだにあるのは、地味なレベル上げの毎日です。

つまり、すぐには目に見えないけれど、少しずつ力がたまっていく時間、ということ。

2026年9月には、IRONMANという226キロのレースを、14時間43分54秒で完走しました。

そこに至る毎日は、中学2年の放課後に土に水をやっていたのと、ほとんど同じ形をしていて、僕はあの姿勢のまま、ここまで来てしまったんだと思います。


今、子どもを見ている大人へ

最後に、先生や親御さんに向けて書かせてください。

通信欄の一行は、その場では、たぶん何も起こしません。僕も当時、読んで何かが変わった記憶はありません。中学生は、自分の点数のほうばかり見ています。

でも、紙は残ります。

先生の一行は、僕にとって、30年分のセーブデータでした。

つまり、当時の僕の姿が、消えずにそのまま残っていた、ということ。

そして30年後、本人が自分の人生を見直そうとしたときに、開かれます。

「よく努力していた」「粘り強い」「力強い」。僕が自分では一度も使えなかった言葉です。使えるようになったのは、紙に書いてあるのを見たからでした。

だから、結果が出る前に、点数にならない部分を、どうか言葉にして残してあげてください。

そしてもし今、誰にも見られていないと思いながら、結果の出ない場所で何かを続けている人がいたら、見ている人はきっといて、あなたのその時間は、記憶から消えても、どこかにちゃんと残っています。

見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。

30年前の3枚の紙も、僕を支えている側にありました。あなたの続けてきた時間も、きっと、誰かに見られています。


最後まで読んでくれて、ありがとうございます

中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。

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RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
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