自分の体に起きた大きな出来事を、すっかり忘れていたことはありませんか。
僕には、あります。それも、目のことで。
もしあなたが、病院で「前にも何かありましたか」と聞かれて、言葉に詰まったことがあるなら。
もしあなたが、昔の手術や入院のことを、いつのまにか思い出さなくなっているなら。
もしあなたが、目の病気と、これから長く付き合っていくところなら。
この記事は、そんなあなたに向けて書きます。
こんにちは。中澤隆(なかざわ りゅう)です。
視覚障害のB2(ビーツー)というクラスで、パラトライアスロンをしています。盲導犬のシュクレと暮らしています。
僕の目の話は、いつも「27歳で緑内障と診断された日」から始めてきました。
でも本当は、その10年近く前に、もうひとつの目の話がありました。
高校3年のとき、僕は両目の白内障の手術を受けています。
今日は、その話をさせてください。
話は、もう少し前から始まります。
僕は、小さい頃からアトピーがありました。
中学生か高校生の頃、使っていたステロイドの薬を弱くしたことがあります。そのあと、リバウンドが来ました。
肌が、一気に荒れました。
朝のシーツに血がつくのは、子どもの頃からずっとでした。この頃が、いちばんひどかった。
朝、布団から出ると、シーツに赤い跡が残っている。それが、毎日続きました。
あの頃の僕のHPは、眠っているあいだにも、少しずつ削られていたんだと思います。
つまり、体を休めるはずの時間にも、肌はずっと休めていなかった、ということです。
今の僕は、子どもの頃の自分を「なにをやってもパッとしない子だった」と話すことが多いのですが、その毎日の裏側には、朝になるたびに布団の上に残っていた、あの赤い色もあったんだと、この記事を書きながら、あらためて思っています。
高校3年のとき、目が見えにくくなりました。
病院へ行くと、白内障でした。両目です。
白内障は、目の中でレンズの役目をしているところが、にごってしまう病気です。お年寄りがなる病気、というイメージを持っている人も多いと思います。
僕は、高校生でした。
手術をすることになりました。入院もしました。学校は、休みました。
工業高校の電気科に通っていた、最後の1年のことです。
同じクラスのみんなが授業を受けている時間に、僕は病院にいました。
そのときの気持ちを、ここで上手に言葉にすることはできません。
でも、手術のあとの一言だけは、はっきり残っているので、それを次に書きます。
手術のあと、僕の口から出た言葉は、これでした。
「クリアーになった!」
にごっていたものが、なくなった。目の前のものが、くっきりしている。
ゲームで言えば、全回復です。
つまり、見えにくくなる前の状態に、すっかり戻った、ということです。
そこから先の僕は、ふつうに高校を卒業して、18歳で電気工事の現場監督の会社に入りました。
図面の細い線も、小さな数字も、読めていました。ヘルメットをかぶって、現場を歩き回っていました。
あの「クリアーになった!」という一言は、僕の人生でいちばん世界がはっきり見えていた時間の、入り口の合図だったのかもしれないと、今になって思います。
手術のとき、お医者さんからは、特に何も言われませんでした。
「将来、また目に何か起きるかもしれません」
そういう話は、ありませんでした。
だから高校生の僕も、その先のことは考えなかったんだと思います。
ここで、はっきり書いておきます。
高校のときの白内障と、27歳で分かった緑内障。この2つに関係があるのかどうか、僕には分かりません。お医者さんから、そういう説明を受けたこともありません。
だからこの記事は、「こうだったから、ああなった」という話ではありません。
僕の目に、そういう順番で、そういうことが起きた。それだけの記録です。
原因を探して、自分の過去のどこかに線を引きたくなる気持ちは僕にもありますが、分からないことを分からないまま置いておくことも、自分の体と長く付き合っていくためには、大事なことなんじゃないかと思っています。
それから、10年近くがたちました。
27歳。ある百貨店の改修工事の現場で、天井の照明のまわりが、虹色に見えるようになりました。
目がかすむ。目が痛い。頭も痛い。
それでも、仕事が忙しくて、すぐには病院に行けませんでした。
やっと行った病院で言われたのは、緑内障でした。
そのときの僕の感想は、「へ〜、そんな病気があるんだ〜」。
ずいぶん、のんきです。
そして、ここからが今日の本題です。
緑内障と言われたとき、僕は、高校の白内障のことを、思い出しませんでした。
忘れていたんです。
両目を手術して、入院して、学校を休んだ。あれだけのことがあったのに。
頭の中のセーブデータから、その記録だけが、きれいに消えていました。
つまり、大事な出来事のはずなのに、思い出すきっかけさえないほど、頭に残っていなかった、ということです。
そのあと、自分でパソコンで調べて、「一度失った視野は、回復しない」と知りました。そのとき初めて、「ヤバイ」と思いました。
高校3年のときは、手術で見え方が戻った。でも今度は、戻らない。
一度は「クリアーになった!」と言えた目が、そこから少しずつ霞んでいく方へ進んでいくことになるのですが、その始まりの日に、僕は自分の目の歴史を、すっかりどこかに置き忘れていました。
「そんな大きなこと、忘れる?」と思われるかもしれません。
僕も、そう思います。自分のことなのに。
でも、今はこう考えています。
手術のあと、目はクリアーになった。だから、毎日の暮らしの中で、目のことを考える必要がなくなった。考えなくていいことは、人は、だんだん思い出さなくなる。
あの頃の僕を、責める気持ちはありません。
ただ、もし今、高校生の自分に一言だけ伝えられるなら、「その手術のこと、覚えておいてね」と言いたいです。
今の僕の目は、視覚障害のB2です。真っ暗ではありません。かすんだ世界の中に、光や、ぼんやりした形があります。
レースでは、ガイドと1本のロープでつながって泳ぎ、2人乗りの自転車の後ろでペダルを踏み、声を頼りに走ります。
2026年9月には、IRONMAN JAPANを14時間43分54秒で完走しました。
はっきり見えていた時間が僕にもあったことを、これからはもう忘れないでおこうと思っていて、あの「クリアーになった!」は、なくした景色の記録というより、僕の目にもそういう日があったという、小さな証明として持っておきたいんです。
あなたの体にも、きっと、忘れている出来事があると思います。
子どもの頃のけが。昔の入院。いつのまにか治った病気。
思い出せなくても、だめなことではありません。
でも、もし何かのきっかけで思い出したら、どこかに書いておいてください。家族に話しておいてください。
それは、いつか未来のあなたが病院で「前にも何かありましたか」と聞かれたときの、小さな手がかりになるかもしれません。
僕は、高校3年で両目の手術を受けて、それを忘れて、27歳で緑内障と言われました。
それでも今日も、シュクレと歩いて、ガイドとつながって、挑み続けています。
見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。
忘れていた記憶まで含めて、全部が今の僕の目の歴史なんだと思えたとき、高校3年で「クリアーになった!」と言った自分のことを、ようやく、ちゃんと迎えに行けた気がしました。
視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、学校・企業・自治体向けに講演を続けています。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
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中澤 隆(なかざわ りゅう)/視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・講演家。18歳から電気工事の現場監督として働き、27歳のときに緑内障と診断されました。31歳でトライアスロンを始め、IRONMANは2024年に13時間14分17秒(PCクラス3位)、2026年9月のIRONMAN JAPANみなみ北海道を14時間43分54秒(PCクラス2位)で完走。盲導犬シュクレと暮らしながら、学校・企業・自治体で講演を続けています。