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📅 2026.10.02 | RYU NAKAZAWA
🎤 講演

2017年、なぜ僕が話す仕事を始めたか|人前が苦手だった僕が9年続けている理由

⏱ 約7分で読めます(3,642字)
IRONMAN JAPAN 2026の表彰ステージでインタビューを受ける中澤隆

「手を挙げて、みんなの前で発表してください」。子どもの頃の僕が、いちばん逃げ出したかった言葉です。

もしあなたが、人前で話すのが苦手なのに、話さなければいけない場面を抱えているなら。
もしあなたが、自分の経験なんて誰かに聞かせるほどのものじゃない、と思っているなら。
もしあなたが、頼まれごとを前にして、引き受けるか逃げるかで迷っているなら。

この記事は、あなたのためのものです。

私は中澤隆(なかざわ りゅう)。視覚障害B2クラスのパラトライアスリートで、盲導犬シュクレと暮らしながらIRONMANに挑んでいます。講演を始めたのは2017年。気がつけば9年がたち、ここ3〜4年は年に50回前後、学校・企業・自治体に呼んでいただいて、僕の話をさせてもらっています。回ってきた場所を数えたら、20を超える都道府県になっていました。

数字だけ並べると、ずっと話すのが得意だった人のように聞こえるかもしれません。でも、本当は逆です。僕は、人前で話すことが、いちばん苦手でした。その僕が、どうして話す仕事を始めたのか。今日は、その話を書きます。

📖 この記事の目次
  1. 目立つことが、怖い子どもでした
  2. 最初に「話してくれませんか」と言われた日
  3. それでも、逃げなかった理由
  4. 苦手は、矯正じゃなく、工夫で越える
  5. 「勇気をもらいました」と言われた日
  6. 誰に向かって、話しているのか
  7. 教えに行ったはずの場所で、いつも教わって帰る
  8. 9年、続けてこられた理由

目立つことが、怖い子どもでした

子どもの頃の僕は、なにをやってもパッとしませんでした。

学校の成績は、3段階で「1」か「2」ばかり。運動会の徒競走は、毎年ビリか、ビリから2番目。プールのクロール25メートルは、小学校の6年間、一度も泳ぎきれませんでした。

そういう子どもが、教室でどうふるまっていたか。当てられると、頭が真っ白になる。声が小さくなる。早く終わってほしくて、机の木目を見つめる。「目立つ」ということが、ただただ怖かったんです。

中学のときには、好きな子に告白できませんでした。「どうせ相手にされない」と、言ってみる前に自分で決めつけて、あきらめた。失敗する前に逃げる。それが、当時の僕のいちばんの弱さでした。

だから今でも、マイクを握るたびに、少し不思議な気持ちになります。手を挙げることもできなかったあの子どもが、いま、体育館の前に立っているなんて、と。


最初に「話してくれませんか」と言われた日

きっかけは、トライアスロンでした。

僕は31歳で視覚障害になり、13年勤めた電気工事の会社を、事実上、辞めることになりました。そのどん底の時期に、トライアスロンに出会いました。そこから少しずつ、競技の世界で結果を残せるようになっていきます。

すると、あるとき、こう言われたのです。

「中澤さんの話を、聞かせてもらえませんか」

正直に白状します。最初に頼まれたとき、頭に浮かんだのは、喜びよりも先に戸惑いでした。

「僕の話なんて、人様に聞かせるようなものだろうか」。だって僕は、ずっと「パッとしない人間」として生きてきました。その僕が、わざわざ時間を作って集まってくれた人たちの前で、いったい何を話せばいいのか。

それに、なにより、怖かった。

号砲が鳴る前の、スタートラインの、あの感じ。胸の奥がきゅっと締めつけられて、足の裏が落ち着かない、あの感じ。それとまったく同じものが、「話してください」と言われた瞬間に、ぶり返してきました。手を挙げられなかった子どもが、まだ、心の中にいたのです。


それでも、逃げなかった理由

でも、そのとき、僕は逃げませんでした。

理由は、ひとつだけです。トライアスロンが、僕に、あることを教えてくれていたからでした。

「一歩、踏み出してみると、なにかが起こる」。

見えない目で、それでもスタートラインに立ってみたら、人生が動いた。だったら、この「話してください」という一歩も、踏み出してみたら、なにかが起こるかもしれない。

苦手だから、やらない。ではなくて。苦手だけど、準備して、やってみる。そっちを選んでみたんです。


苦手は、矯正じゃなく、工夫で越える

引き受けたものの、本番までは不安でいっぱいでした。

なにしろ、即興が苦手です。その場でお題を振られると、今でも頭が真っ白になる。当日、ステージの上でアドリブで切り抜ける。そんな芸当は、僕にはできません。

だから、準備しました。人より準備しました。

「当日、なんとかしよう」という発想は、最初から捨てました。当日になんとかできないからこそ、当日までになんとかしておく。それが、僕の出した結論でした。

これは、自分の弱さを、そのまま受け入れた結果でもあります。「即興が苦手」は、僕にとってはただの事実です。事実なら、戦ってもしょうがない。矯正しようとしても、たぶん一生うまくはなりません。だったら、得意なところで埋める。準備した語りなら、僕は強いのです。

苦手は、矯正じゃなくて、工夫で越える。これは、目が見えなくなってから、体に叩き込んできた考え方でした。

そして、初めての講演を、なんとかやりきりました。うまくしゃべれた自信は、正直、ありませんでした。心臓は最後までばくばくしていました。でも、準備してきたことだけは、全部出しきった。それだけは、たしかでした。


「勇気をもらいました」と言われた日

その最初の講演のあと、僕の中で、なにかが変わりました。

話を聞いてくれた人が、僕のところに来て、声をかけてくれたのです。

「勇気をもらいました」

その一言に、不意を突かれました。

僕が話したのは、自慢できるような話ではありません。むしろ、その逆です。なにをやってもダメだった子ども時代。突然、目が見えなくなっていく怖さ。13年勤めた会社を辞めることになった、あの悔しさ。逃げてばかりだった、弱い自分。

できれば隠しておきたい、かっこ悪い話ばかりでした。

その、かっこ悪い話が——誰かの役に立った。

見えなくても、声だけは、はっきり届きます。声には、嘘がありません。その人は本当に、僕の弱さの話を聞いて、もう一歩、前に進んでみようと思ってくれていた。

そのとき、僕は初めて知りました。自分が味わってきた苦しさは、ただの苦しさで終わるものじゃない。むしろ、その苦しさを隠さずに正直に話すことこそが、誰かの心にまっすぐ届くのだ、と。

弱さは、隠すと弱点になる。でも、先に出すと武器になる。それを、自分の体で知ってしまいました。知ってしまったら、もう、やめられませんでした。


誰に向かって、話しているのか

9年続けてきて、僕の中には、ひとつの軸ができました。

僕はいつも、過去の自分に向かって話しています。視覚障害になりたての頃の、あの僕です。

夜になるのが怖くて、誰にも言えないまま朝を待っていた、あの頃の僕。仕事を失って、これからどうやって生きていけばいいのか、まったく分からなかった、あの頃の僕。

もし、あの頃の僕が客席に座っていたら。今の僕は、なにを話すだろう。なにを聞かせてあげたら、あの僕は、ほんの少しだけ前を向けるだろう。そう考えながら、僕は話しています。

だから、きれいごとは言いません。簡単に「大丈夫」とも言いません。あの頃の僕は、薄っぺらい励ましなんて、聞きたくなかったはずだからです。苦しかったことは、苦しかったまま話す。そのうえで、それでも、こういう工夫で前に進めたよ、と伝える。

会場には、いろいろな人がいます。子どももいれば、大人もいる。障害のある人もいれば、ない人もいる。でも、その中の誰かは、きっと、かつての僕みたいに、なにかに行き詰まっている。過去の僕に話しかけるように話せば、その人にも、きっと届く。そう信じています。


教えに行ったはずの場所で、いつも教わって帰る

僕は、講演を「教える側」の仕事だと思って始めました。でも、続けるうちに、だんだん分かってきたことがあります。

僕は毎回、どこかで「教わっている」のです。

ある日、子どもたちの前で話したときのこと。講演のあと、子どもたちが発表をする時間がありました。その中の子が、友だちの発表を聞いて、こう言ったのです。

「ここが、とても良かったと思います。でも、ここをこうしたら、もっと良くなると思います」

まず、相手の良いところを認める。そのうえで、もっと良くなる方向を、一緒に考える。大人でも、なかなかできないことです。否定だけでもなく、ほめるだけでもない。それを、その子は自然にやっていました。

見えない僕には、その子の顔ははっきりとは分かりません。でも、声と、言葉の選び方だけで、その賢さがまっすぐ伝わってきました。明日からの講演で、僕もあの言い方を使わせてもらおう。教える側のはずだった僕が、その日、しっかり教わっていたのです。

講演は、お金をいただく仕事です。でも、本当の対価は、お金だけではありません。「教わる側」になれる瞬間を、月に何度ももらえる。これが、僕の宝物です。


9年、続けてこられた理由

人前で話すのがいちばん苦手だった僕が、年に50回前後、マイクの前に立っています。即興ができない僕が、準備という工夫で、それを続けています。隠してきた弱さを武器に変えて、過去の自分のような誰かに届けようとしています。そして、届けに行ったはずの場所で、いつもなにかを受け取って帰ってきます。

これは、特別な才能の話ではありません。気合いの話でもありません。

「できるか、できないか」で立ち止まっていたら、僕は最初の「話してください」で逃げていたと思います。でも、「どうやったら、できるか」と考えてみた。準備すればいい。弱さは先に出せばいい。過去の自分に向けて話せばいい。そうやって、ひとつずつ工夫を重ねて、ここまで来ました。

そして、ここまで自力で来たわけでもありません。声をかけてくれた人がいて、聞きに来てくれる人がいて、足元にはいつも相棒がいる。支えられて、繋がる輪の中で、僕は今日も、どこかの会場のドアを開けます。心臓をばくばくさせながら。それでも、一歩を踏み出して。

見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。マイクの前に立つのは、その旅の、いちばん人に近い場所なのだと思っています。


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視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、学校・企業・自治体で講演しています。テーマは「挑戦」「障害理解」「ダイバーシティ」「盲導犬と歩む人生」。2017年から講演を続け、ここ3〜4年は年50回前後で登壇しています。盲導犬シュクレも一緒に伺えます。

講演料は、学校・自治体・非営利団体の場合5万円〜(応相談)。オンライン・対面どちらにも対応しています。

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最後まで読んでくれて、ありがとうございます

中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。

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この記事を書いた人|中澤隆(なかざわ りゅう)

視覚障害B2クラスのパラトライアスリート/講演家。盲導犬シュクレと暮らしています。27歳で緑内障と診断され、31歳でトライアスロンを始めました。アジア選手権2連覇、世界ランキング最高6位。あん摩マッサージ指圧師。

2026年9月13日、IRONMAN JAPANを14時間43分54秒で完走(PCクラス2位)。2017年から講演を続け、ここ3〜4年は年50回前後で登壇しています。

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