「視力を失うかもしれない。これから、働き続けられるんだろうか」——もし今、あなたがその不安の中にいるなら。この記事は、あなたのために書きました。
視覚障害B2のパラトライアスリート、中澤隆(なかざわ りゅう)です。僕も同じ場所に立っていました。だからこそ伝えられることがあります。
27歳のある日、目の奥に違和感があって、眼科に行きました。医師から告げられたのは「緑内障です。視野が少しずつ欠けていきます」という言葉でした。
その瞬間、頭が真っ白になりました。「明日は見えるのかな」「これから、どうやって生きていけばいいんだろう」。夜、天井の蛍光灯を見上げると、光がにじんで見えました。あの時の不安は、今でも忘れられません。
診断のあと、治療が始まりました。目薬、飲み薬、そして両目に何度も手術。治ると信じたかった。いや、信じるしかありませんでした。でも緑内障は、一度欠けた視野が戻る病気ではありません。少しずつ、確実に、見える範囲は狭まっていきました。
31歳になるころには、右目は5円玉の穴から覗いているような視界、左目は目の前のグーチョキパーがやっと分かる程度になっていました。それまで13年間勤めていた会社からは、事実上のクビ。「明日も見えているだろうか」「これから生活していけるだろうか」「自分には、もう未来がないんじゃないか」。そう思った時期が、たしかにありました。
正直に言うと、あの頃の僕は、誰にも会いたくなかった。外に出るのも怖かった。見えないことを知られたくなくて、できないことを隠して、ただ家の中で時間が過ぎるのを待っていました。今ふり返れば、一番つらかったのは「目が見えないこと」そのものより、「これからどうなるか分からない」という不安だったと思います。
「視覚障害」と聞くと、多くの人は「真っ暗で何も見えない」とイメージするかもしれません。でも実際は、見え方は人によってまったく違います。
僕の見え方は「視野狭窄(しやきょうさく)」といって、視界の中心しか見えず、周りがごっそり欠けている状態です。トンネルの先を覗いているような感じ、と言うと近いかもしれません。だから、正面のものは見えても、横から来る人や、足元の段差には気づきにくい。
ほかにも、視野の真ん中だけが見えない「中心暗点」、半分だけ見える「半盲」、全体的にまぶしくかすむ「羞明」など、いろいろな見え方があります。だから、白杖を持っていても、盲導犬と歩いていても、まったく見えないわけではない人がたくさんいます。このことを知ってもらえるだけで、僕たちの暮らしはずっと生きやすくなります。
不安なとき、人は「全部できるようになってから動こう」と考えてしまいます。でも、それだと一生動けません。
僕が見つけたのは、「めんどくさいと思うときは、まず1ミリの行動」という合言葉でした。やる気が出るのを待つのではなく、動くための小さな一歩だけ先にやる。靴下を履く。玄関まで行く。5分だけやってみる。そこまでやれば、体は勝手に動き始めます。
僕の場合、最初の「1ミリ」は、1本の電話でした。沈んでいたある日、24時間テレビで、全盲の選手・立木早絵さんがトライアスロンに挑戦している姿を見たんです。「自分より見えない人が、こんなに挑戦している」。心が震えて、自然と涙が流れました。「自分にもできるかもしれない」。次の日、ダメ元で、近所の青山トライアスロン倶楽部に電話をかけました。
「目が悪いんですが、受け入れてもらえますか」。不安でいっぱいの問い合わせに、返ってきたのは「大丈夫ですよ」という温かい言葉でした。しかも、そこのコーチは——テレビで僕が見た、あの立木早絵さんのコーチだったんです。運命を感じました。今思えば、あの1本の電話が、僕の人生を変えた最初の1ミリでした。
始めた頃の僕は、25mも泳げない、1km走ると膝が痛くなる、ただの太ったおじさんでした。運動はずっと苦手で、「続けても、どうせ上手くならない」と思っていました。
それでも、とにかく続けてみました。すると、約半年後。初めて出場した千葉・館山の大会で、いきなり優勝してしまったんです。参加者は3人。そのうち1人は、シドニーパラリンピックのマラソン金メダリストでした。「絶対に勝てない」と思いながら走って、最後まで諦めなかったら——その金メダリストより3秒早くゴールしていました。あの瞬間、僕はトライアスロンに本気で恋をしました。
そこからは、坂道を転がるように世界が広がっていきました。アジアパラトライアスロン選手権で2連覇。ITU世界トライアスロンシリーズ横浜大会で優勝。世界ランキングは最高6位まで。そして2024年・2025年と、世界最高峰のアイアンマン(226km)を2年連続で完走しました。
運動が苦手で、目も見えにくい僕が、です。特別な才能があったわけじゃありません。あったのは、「まず1ミリ動いて、続けた」ことだけ。視力を失ったあの日、もし家にこもったままだったら、この景色は一生見られませんでした。
見えにくくなっても、働き続けることはできます。大事なのは「気合い」ではなく「工夫」です。
僕が実際に使っている工夫を、いくつか紹介します。
道具だけではありません。一番大きく変わったのは、「人に頼ること」への考え方でした。見えなくなったばかりの頃は、できないことを隠して、ひとりで抱え込んでいました。でも、それでは何も進まない。「すみません、ここ読んでもらえますか」「ここ、手伝ってもらえますか」。そう言えるようになってから、仕事も生活も、驚くほど回るようになりました。
大事なのは、「できない」と嘆く前に、「どうやったらできるか」を考えること。そして、ひとりで全部やろうとしないこと。道具と工夫と、まわりの力を借りれば、できることはたくさんあります。「助けてもらう」のは、弱さではありません。むしろ、前に進むための立派な工夫のひとつです。
僕は今、製薬関連企業のサイネオス・ヘルス・ジャパンに所属しながら、アスリート・講演家としても活動しています。年間50回以上、学校や企業で講演をしています。見えにくいことは、働けない理由にはなりませんでした。むしろ、「見えにくいからこそ伝えられること」が、僕の仕事になっています。
僕には、ひとつ決めていることがあります。それが「人生現役」です。
歩くことしかできなくなっても、車椅子になっても、視力が完全に失われても、僕は何かに挑戦している自分でいたい。一生どこかで、現役でありたい。これは「一生涯アスリート」という意味ではなく、「人生そのものを、現役で生ききる」という、僕の人生の指針です。
視力を失うことは、人生を失うことではありません。見える景色は変わっても、挑戦できる人生は、ずっと続いていく。僕はそれを、トライアスロンやアイアンマンへの挑戦を通して、自分の体で証明し続けています。
今の目標は、アイアンマンで視覚障害者のギネス世界記録「11時間03分」を超えること。2024年は13時間14分17秒、2025年は15時間8分45秒。正直、まだ届いていません。それでも、いつか必ず超えます。そして——達成できても、できなくても、僕の挑戦は終わりません。歩くことしかできなくなっても、車椅子になっても、視力が完全に失われても、何かに挑戦している自分でいたい。それが「人生現役」です。
もうひとつ、大切にしている言葉があります。「ピンチはチャンス、カギは工夫」。視覚障害になったことは、間違いなく僕の人生最大のピンチでした。でも、そのピンチがあったから、トライアスロンに出会い、世界と戦い、講演で誰かの背中を押せるようになった。あのピンチがなければ、今の僕はいません。
今、視力のことで不安なあなたへ。あるいは、ご家族が見えにくくなって、どう支えればいいか分からないあなたへ。
「大丈夫」とは、簡単には言えません。僕も怖かったし、今でも怖いことはあります。診断された日の、あの真っ白になった気持ちは、今も忘れていません。だから、無責任に「頑張れ」とは言いたくない。
でも、ひとつだけ確かなことがあります。「できないこと」が増えても、「工夫すればできること」も、ちゃんと増えていく。見えなくなってから出会えた人、できるようになったこと、見えた景色が、僕にはたくさんあります。そして、手を貸してくれる人は、必ずいます。
完璧に準備してから動こうとしなくて大丈夫。自信がついてから、ではなく、不安なまま、まずは今日の「1ミリ」から。靴下を履くだけ、外の空気を吸うだけ、誰かに一本メールするだけ。それでいいんです。あなたのペースで、一緒に進んでいきましょう。
僕が視覚障害になってから今日までの道のりを、16分の動画にまとめています。文章より、声のほうが届く日もあると思うから。よかったら、そばに置いておいてください。
中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
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