「せいの」。
その声がかかると、何本もの腕の力が、すっと一本にそろいます。天井裏に、太い電線が入っていく。
あの声が、僕は、現場でいちばん好きでした。
いまの仕事を、この先も続けられるだろうかと考えている人。
誰かと声をそろえて、重たいものを動かしたことがある人。
見えなくなっていく人の世界に、何が残るのかを知りたい人。
この記事は、そんなあなたに向けて書きます。
こんにちは。中澤隆(なかざわ りゅう)です。
視覚障害のB2(ビーツー)というクラスで、パラトライアスロンをしています。いまは盲導犬のシュクレと歩いて、レースではガイドと二人で進んでいます。
でも、その前の僕は、電気工事の現場監督でした。18歳から、約13年。
図面を広げて、職人さんと段取りを決めて、何もなかった場所に設備ができあがっていくのを見届ける仕事です。
まだ、目が見えていた頃の話です。
先日、「現場でいちばん好きだった音は何でしたか」と聞かれました。
考える前に、ひとつの声が浮かびました。今日は、その音の話をさせてください。
就職したのは、電気工事の施工管理の会社でした。いわゆる、現場監督です。
入ったばかりの僕は、完全にレベル1でした。
つまり、何ひとつ分からない状態からのスタートだった、ということです。
飛び交う専門用語は、暗号みたいでした。図面の細い線と小さな数字が何を意味しているのかも、読めませんでした。
それでも続けられたのは、同じ高校の先輩が3人、その会社にいてくれたからです。
何度聞きにいっても、嫌な顔ひとつしない。失敗しても、頭ごなしに怒らない。「じゃあ次はどうしたらいいか、一緒に考えよう」と、隣に立ってくれる人たちでした。
朝は、現場に着くと、危険予知活動のファイルを持って朝礼に出て、ラジオ体操。
ヘルメット、安全靴、安全帯。そして、図面。それが、僕の一日の始まりでした。
少しずつ覚えていって、あるとき、職人さんから声をかけられるようになりました。
「中澤さん、これ、どうする?」
ただの、仕事の確認です。
でもその一言は、ずっと「できない側」にいた僕が、初めて「頼られる側」に立った瞬間で、当時の僕には、とてつもなく大きなものでした。
さて、本題です。
現場には、いろいろな音があります。工具の金属がぶつかる音。ドリルの音。トラックのバック音。無線の声。
その中で、僕がいちばん好きだったのは、機械の音ではありませんでした。
電工の職人さんたちと一緒に、幹線を引っ張るときの「せいの」の声です。
幹線というのは、建物全体に電気を送る、太くて重い電線のことです。手先だけで取り回せるものではありません。何人かで持って、力を合わせて、一気に引きます。
そこで、必ず誰かが声を出します。
「せいの」
この二音に、その場にいる全員の呼吸が合わさります。
ばらばらだった腕の力が、一本の線になる。ずっしり重かったものが、その瞬間だけ、ふっと軽くなる。
手のひらには、電線の表面のざらつきと、動き出した重さが、同時に伝わってきます。
誰が偉いとか、誰の力が強いとか、関係ありません。声がかかって、全員が同じ瞬間に力を出す。それだけです。
あの頃の僕は、それが好きな理由を言葉にできず、ただ「気持ちいい音だな」と思っていただけでしたが、20年以上たって振り返ってみると、今ははっきり分かります。
僕は、人と力を合わせた瞬間が、音になって返ってくるのが、好きだったんです。
逆に、いちばん苦手だった音も、はっきり覚えています。
床の仕上げをする職人さんが、大理石をサンダーで削る音です。
建物ができあがっていく終わりのほうで、床の石を寸法に合わせて、切ったり削ったりする作業があります。
高く、鋭く、途切れずに続く音。金属が石を削る音は、耳の奥を、まっすぐ引っかいてきます。
あの音は、僕の耳のHPを、じわじわ削ってきました。
つまり、鳴っているあいだ、体のどこかにずっと力が入ってしまっていた、ということです。
おもしろいものだな、と思います。
いちばん好きだった音は、人の声。いちばん苦手だった音は、機械が石を削る音。
まだ目が見えていて、図面も読めて、職人さんの顔も見えていたはずの僕が、あの現場でいちばん強く覚えているのが、結局「音」だったということに、あとになって、自分でも少し驚きました。
もうひとつ、覚えていることがあります。
現場監督が毎日持っていたのは、工具ではありません。管理する側なので、持ち物は文房具でした。
この3つを、毎日、身につけていました。ほかに、携帯電話と、図面と、ファイル。
手帳に、その日の段取りを書く。職人さんに言われたことを、その場で書き留める。図面の余白に、シャープペンで印を入れる。
手帳は、その日の段取りをセーブしておく場所でした。
つまり、言われたことや決めたことを、忘れないように書いて残しておく場所だった、ということです。
書く道具を持っていることが、「自分は段取りを預かっている人間なんだ」という、証明みたいなものでした。
この3つが、のちに、僕の手から離れていきます。
自分で書いた字が、読めなくなる。手帳のマス目がにじんで、区別できなくなる。その話は、またあらためて書きます。
ここでは、ひとつだけ。
当時の僕は、自分の仕事は「見ること」でできていると思っていて、図面を見る、現場を見る、進み具合を見る、だから見えなくなったら終わりだと、あとになって本気で思いました。
でも、いちばん好きだったものは、見るものではありませんでした。
いま、僕は、音で歩いています。
前から人が来る気配。足音の反射で分かる、壁の近さ。車の走る向き。盲導犬の爪が床を鳴らす音。ハーネスごしに伝わってくる、シュクレの歩幅の変化。
レースでも、同じです。
スイムは、ガイドと一本のロープでつながって泳ぎます。バイクは二人乗りのタンデム自転車で、前がガイド、後ろが僕。ランは、ロープを握り合って、声を頼りに横に並んで進みます。
そのとき、僕の世界をつくっているのは、ほとんどが音です。
「段差、3歩先」
「右、詰まってます」
「行きましょう」
短い言葉が、ぽん、ぽん、と飛んできます。その一つひとつに、僕は足の出し方をあずけています。
タンデムのペダルがかみ合って、二人の脚が同じリズムになった瞬間、自転車が、ふっと軽くなります。
その感覚に、僕はいつも、覚えがあります。
この、重たいものが急に軽くなる感じを、僕は前に味わったことがある。
――「せいの」です。
天井裏に幹線を引いた、あの現場の声とまったく同じものが、あれから20年以上たったいまも、僕の暮らしの真ん中にありました。
見えていた頃に好きだった音が、見えなくなったあとの、歩き方になった。
これは、僕が自分で考えてそうしたことではありません。気づいたら、そうなっていました。
目が見えなくなっていくことを、僕は長いあいだ、失うことだとだけ思っていました。
実際、失ったものはたくさんあります。図面も、手帳も、車の運転も、13年いた会社も。
でも、それでゲームオーバーではありませんでした。
つまり、たくさん失ったけれど、全部が消えたわけではなかった、ということです。
残ったものが、ありました。それが、音でした。
音は、そこに誰かがいる、という証拠です。
「せいの」が聞こえるということは、自分の力だけでは動かせない重さを、誰かと一緒に持っている、ということです。
現場の僕も、いまの僕も、やっていることは同じでした。自分の力だけでは動かないものを、声をそろえて動かしている。それだけです。
あなたにも、たぶん、あると思います。誰かと声がそろった瞬間の記憶が。
それは、働き方が変わっても、体が変わっても、ちゃんと残っていて、僕はそれを一つひとつ確かめながら、いまも歩いています。
見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける。その旅を、仲間と一緒に。
「せいの」の声を、これからも聞いていたいんです。今度は、僕が出す側で。
視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、学校・企業・自治体向けに講演を続けています。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
📧 つなひろワールドへお問い合わせ中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
新しい記事が出たら、メールでお知らせします。すぐ下のフォームから登録できます ↓
視覚障害B2のパラトライアスリート・中澤隆が、盲導犬シュクレと一緒に学校・企業で講演しています。
テーマ:「挑戦」「障害理解」「盲導犬と歩む人生」「ダイバーシティ」
「見えなくなっていく世界の中で、支えられながら挑み続ける」——その旅の話を、そのままお届けします。
中澤 隆(なかざわ りゅう)/視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・講演家。18歳から電気工事の現場監督として働き、27歳のときに緑内障と診断されました。31歳でトライアスロンを始め、2026年9月のIRONMAN JAPANみなみ北海道を14時間43分54秒で完走(PCクラス2位)。盲導犬シュクレと暮らしながら、学校・企業・自治体で講演を続けています。