先生に名前を呼ばれて答案を受け取りに行く、あのたった数歩。それがいやでいやで仕方なかった子どもが、いまは世界の舞台を走っています。
もしあなたが、通知表を見るのが怖かった子どもだったなら——。
もしあなたが、「自分は何をやってもダメだ」と思ったことがあるなら——。
もしあなたが、お子さんの成績表を前に、ため息をついたことのある親御さんなら——。
この記事は、あなたのためのものです。
こんにちは。視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・中澤 隆(なかざわ りゅう)です。盲導犬シュクレと暮らしながら、IRONMAN(226km)のサブ11時間挑戦と、年間50回前後の講演を続けています。
今日は、僕の通知表の話をします。講演でも最初に話す、僕の「スタート地点」の話です。少し長くなりますが、手紙を読むつもりで、最後までお付き合いいただけたらうれしいです。
僕がどんな学生だったかというと、正直、運動も勉強も全然できませんでした。
成績で言えば「1が2」。テストが返ってくるたびに、胸がギュッとなる感じ。先生に名前を呼ばれて答案を受け取りに行く、あの数歩がいやでいやで仕方ありませんでした。隣の席の子の点数が、なんとなく目に入ってしまう。それだけで、また自分が小さくなっていく気がしました。
運動会の徒競走は、だいたいビリ。良くても、ビリから2番目でした。スタートのピストルが鳴る前から、心のどこかで「今日もビリだろうな」と思っている。そう思っていると、本当にそうなる。そういう子どもでした。
学校って、成績と速さで測られる場所です。
その物差しの上で、僕はいつも、下から数えたほうが早い場所にいました。テストの点も、走る速さも、数字になって返ってくる。返ってきた数字が、そのまま「自分の価値」みたいに感じられて、僕はずっと、自分に低い点をつけて生きていました。
今だから言えますが、当時の僕は「自分には何もない」と本気で思い込んでいました。誰かに言われたわけじゃない。通知表の数字を見ながら、自分で自分にそう言い聞かせていたんです。
中学校では、好きな女の子ができました。
でも、告白なんてできない。「どうせ相手にされない」って勝手に決めつけて、言葉を飲み込みました。
声をかけようと思った日は、何度もありました。でも、その一歩手前で、いつも足が止まる。「断られたら、もっと自分が惨めになる」。そう考えると、何も言わずに帰るほうが楽だったんです。だから僕は、何も言いませんでした。
今思うと、失敗が怖くて、最初から逃げるクセがついていたんだと思います。挑む前に答えを決めてしまう。やってみる前に「どうせ無理」と幕を下ろしてしまう。
通知表の数字が教えてくれた「どうせ無理」は、勉強や運動だけじゃなく、恋にも、進路にも、染み出していました。テストの点が低い、足が遅い、それだけのことだったはずなのに、いつのまにか「人として下のほう」みたいな気持ちになっていた。子どもの頃の自己評価って、本当に怖いなと思います。一度しみついた「どうせ」は、なかなか剥がれてくれませんでした。
高校は、家の近くの工業高校に入りました。
1年のときは15クラスあったのに、3年になる頃には11クラスに減っていく。
学校の中にも、どこか「先が見えない空気」がありました。途中で来なくなる子もいる。気づくと席が空いている。誰かが静かにいなくなっていく感じが、子ども心にも分かりました。
学科は電気科。「これならまだ、自分にもできるかもしれない」という、消去法みたいな選び方でした。やりたいことがあったわけじゃない。得意だったわけでもない。「これ以外は無理だ」を一つずつ消していって、最後に残ったのが電気科だった、というのが本当のところです。
正直に言えば、高校生活も、ずっと胸を張れるものではありませんでした。授業についていくのもやっと。気を抜けば、いつ自分の席が空席になってもおかしくない。そんな環境でした。
でも——留年せずに卒業できたこと。
それだけは、当時の自分にとって、小さな誇りでした。
派手な賞をもらったわけじゃありません。誰かに褒められたわけでもない。ただ、毎朝、学校に行った。出されたものを、なんとか出した。来なくなる友達がいる中で、自分は最後まで席に座り続けた。それだけです。
今振り返ると、あれが僕の最初の「1ミリの行動」だったと思います。
派手じゃない。誰にも褒められない。でも、続けた。あのとき自分が「続けた」という事実は、その後の人生で、思っていたよりずっと大きな意味を持つことになりました。
18歳で、電気工事の現場監督——施工管理の仕事をする会社に就職しました。
学校では下から数えたほうが早かった僕にとって、社会に出るのは、正直こわかったです。「ここでもまた、できないやつだと思われるんだろうな」。最初はそんな気持ちでした。
でも、その会社には、同じ高校の先輩が3人いました。
その3人が、僕をかわいがってくれたんです。仕事のやり方を一から教えてくれて、失敗しても頭ごなしに怒らず、できるようになるまで何度でも付き合ってくれた。
生まれて初めて、「自分の居場所ができた」と思えました。
成績の数字でも、走る速さでもなく、「現場で動けるかどうか」「最後までやり切るかどうか」で見てもらえる。学校とは、人を測る物差しがまるで違いました。テストの点が低いことなんて、現場では誰も気にしない。それよりも、現場をきちんと回せるか、頼まれたことを最後までやるか。そこを見てもらえる世界が、確かにあったんです。
あのとき僕は、初めて知りました。学校の物差しが世界のすべてじゃない、ということを。世界には、たくさんの物差しがある。学校の物差しで下のほうにいた自分でも、別の物差しの上では、ちゃんと立っていられる場所がある。それは、僕にとって大きな発見でした。
ようやく見つけた居場所でしたが、僕の体には、静かに変化が始まっていました。
27歳のころ、天井の照明の周りが、虹色に見えるようになったんです。目が痛くて、霞んで、頭も痛い。おかしいなと思って病院に行ったら、緑内障と言われました。最初は「へ〜、そんな病気があるんだ〜」と、正直、軽く考えていました。
目薬も、飲み薬も、手術も、何度もしました。「これで良くなるはず」と信じたかった。でも、見える範囲は少しずつ、少しずつ狭くなっていきました。
つらかったのは、仕事への影響です。僕の仕事は、図面を見る仕事でした。細かい数字や線が並んだ図面を読んで、現場を組み立てていく。その図面の細かい字が、だんだん見えなくなっていったんです。
1回で済んでいた確認が、2回になり、3回になる。「早くしなきゃ」と思えば思うほど、手が止まる。昨日できたことが、今日できない。その繰り返しでした。悔しくて、情けなくて、でも誰にも言えませんでした。
そして31歳。視覚障害者になりました。
あのころは、夜になるのが怖かったです。眠って、朝起きたら、もっと見えなくなっていたらどうしよう——。そんなことばかり考えていました。
ようやく手に入れた、初めての居場所。その場所も、静かに終わりを迎えました。やれる仕事が少しずつ減っていって、ある日、「このまま続けるのは難しいよね」と告げられた。13年勤めた会社でした。ここが自分の居場所だと、ずっと思っていた場所でした。
学校では下から数えたほうが早く、それでも社会に出て見つけた居場所まで、手のひらからこぼれていく。あのころの僕は、また「どうせ無理」の世界に、引き戻されたような気持ちでいました。
退職したあと、目の前は真っ暗でした。何をしたらいいのかも分からない。
そんなとき、相談していた方から、こう言われました。
「大学、行ってみたら?」
正直、最初は「この歳で?」「成績が1ばかりだった自分が?」と思いました。子どものころからずっと、勉強は自分にいちばん向いていないものだと思い込んでいたからです。
でも、ほかに進む道も見えなかった。だから、やってみることにしました。人生で初めての、大学受験です。そして、視覚障害のある人が学べる大学の、鍼灸の学科に入りました。
大学の日々は、必死そのものでした。単位を一つ落とすだけで留年——そういう緊張感の中で、見えにくい目で、毎日勉強しました。あのころ、僕の中で繰り返し聞こえていたのは、高校時代の自分の声です。「留年せずに卒業した」。あのとき続けられたんだから、今度も、1日ずつなら続けられるかもしれない。
結果として、留年せずに卒業できました。国家資格の試験は、鍼師・灸師には受かりませんでした。でも、あん摩マッサージ指圧師には合格できたんです。
その合格は、僕にとって、ただの資格以上のものでした。「まだ自分は終わっていない」。そう思える証明を、ひとつ、自分の手で取り戻すことができた。学校の成績では下のほうにいた自分が、30代になって、もう一度机に向かって、ひとつ前に進めた。あのときの感覚は、今でも忘れません。
視覚障害者になってから、僕はトライアスロンに出会いました。
きっかけは、テレビでした。全盲の女の子が、トライアスロンをしている映像を見たんです。画面の前で、僕は動けなくなりました。「僕より見えない子が、やっている。僕はまだ、少しは見えている。だったら、僕にもできるかもしれない」。そう思って、始めました。
とはいえ、最初は本当にひどいものでした。25メートルも泳げませんでした。少し走れば、1キロで膝が痛くなる。スポーツなんて、それまでの人生でいちばん遠い場所にあったものです。徒競走でビリだった子どもが、いきなり泳いで、漕いで、走るんですから。
でも、「留年せずに卒業する」をやり切った僕には、ひとつだけ得意なことがありました。
コツコツ続けることです。
25メートルが、50メートルになる。1キロで痛かった膝が、2キロ、3キロと走れるようになる。昨日より1ミリだけ、できることが増えていく。その積み重ねだけを、ひたすら信じてやっていきました。
そしてもう一つ、僕の人生を変えた出会いがありました。受け入れてくれるトライアスロンの倶楽部に「視覚障害のある僕でも大丈夫ですか」と問い合わせて、入った先で出会ったコーチ。その方が、なんと——テレビで僕が見た、あの全盲の女の子のコーチだったんです。
始めるきっかけをくれた、あの女の子。そのコーチが、めぐりめぐって、僕の最初のコーチになった。点と点が、思いがけないところで線になる。あのとき僕は、運命のようなものを感じました。
そのコーチと一緒に、世界を転戦するようになりました。半年後、初めて出場した大会で優勝。その後、アジア選手権で2連覇、世界ランキングは最高6位まで行くことができました。徒競走でビリだった子どもが、です。
通知表に「続ける力」という科目はありませんでした。
徒競走に「ガイドと信頼で走る」という種目もありませんでした。
僕の種目は、学校の外にあったんです。そして、その種目を一緒に走ってくれる仲間も、学校の外で出会いました。
もし君の通知表に、今、1や2が並んでいても。徒競走でビリでも。
それは「君がダメ」という意味じゃありません。
学校の物差しが、君の種目をまだ測れていないだけです。
学校の物差しは、たった一種類です。点数と、速さ。でも、世界にはもっとたくさんの物差しがあります。「最後までやり切る力」「あきらめずに続ける力」「人を信じて、人に支えてもらう力」。そういうものを測る科目は、残念ながら、通知表には載っていません。でも、それは確かに存在する力で、人生の中では、何度も君を助けてくれます。
人生には、学校を出てから始まる種目が、数え切れないほどあります。
僕の種目は、31歳から始まりました。徒競走でビリだった子どもが、世界の舞台で走るまでに、それくらいの時間がかかったんです。だから、君のスタートが少し遅くても、まったく問題ありません。
そして、もう一つだけ伝えたいことがあります。僕がここまで来られたのは、決して自分の力だけではありません。現場でかわいがってくれた先輩がいて、大学を勧めてくれた方がいて、テレビの女の子と、その子のコーチがいて、今も伴走してくれる仲間がいる。たくさんの人に支えられて、繋がる輪の中で、僕は前に進んできました。誰の支えもなかったら、25メートルも泳げないままだったと思います。
だから、焦らなくていい。
ただ、「留年せずに卒業する」みたいな、自分だけの小さな誇りを、ひとつ守ってみてください。誰にも褒められなくていい。地味でいい。その「続けた」が、いつか君の種目に繋がります。
僕は、これからも挑み続けます。徒競走でビリだったあの子どもが、今もまだ、新しい種目に挑んでいる。そのことが、過去の僕みたいな誰かの、ほんの少しの勇気になれたら——こんなにうれしいことはありません。
通知表の「1」は、人生の点数じゃなかった。僕の種目が、まだ学校になかっただけ。
2026年9月13日、IRONMANジャパンみなみ北海道(225.8km)に挑みます。この挑戦は、支えてくれる人たちと一緒に作る物語です。日々の練習やレースの様子を発信しているので、そばで見届けてもらえたら嬉しいです。
中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
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RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
盲導犬シュクレと共に、1ミリの行動を続ける人