「目が見えにくいんですけど、こんな僕でも、受け入れてもらえますか?」。指が少し震えるのを感じながら、僕はトライアスロン倶楽部に問い合わせを送りました。返ってきたのは、「大丈夫ですよ」の一言でした。
もしあなたが、家にいる時間が増えるほど、不安だけが大きくなっていく毎日を過ごしているなら——。
もしあなたが、「自分にはもう、できることなんて何ひとつ残っていない」と思いかけているなら——。
もしあなたが、誰かの挑戦を見て、理由もわからないまま涙が出た経験があるなら——。
この記事は、あなたのためのものです。
こんにちは。視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・中澤 隆(なかざわ りゅう)です。盲導犬シュクレと暮らしながら、IRONMAN(226km)のサブ11時間挑戦と、年間50回前後の講演を続けています。
今日お話しするのは、僕のすべての始まりになった「テレビの夜」のことです。15年たった今でも、講演で必ず話している場面です。そして、その夜の続きには、後になって振り返ると鳥肌が立つような、運命としか言いようのない出会いが待っていました。その話まで、はじめて全部つなげて書きます。少し長くなりますが、最後まで読んでもらえたら嬉しいです。
僕の目の話は、27歳のある日から始まります。
当時の僕は、電気工事の現場監督をしていました。図面を見て、現場を回って、職人さんに段取りを伝える。体を動かす仕事も、頭を使う仕事も両方ある、嫌いじゃない毎日でした。
ある日、ふと天井の照明を見たとき、明かりの周りが虹色ににじんで見えたんです。目が霞む。なんだか頭も痛い。最初は「疲れかな」くらいに思っていました。でも、どうにもおかしいので病院へ行きました。
そこで言われた病名が、緑内障でした。
正直に言うと、そのときの僕の最初の感想は、「へ〜、そんな病気があるんだ〜」でした。本当に、それくらい軽く考えていたんです。薬を飲めば治るんだろう、くらいに。
「ヤバイ」に変わったのは、それから少し経ってからでした。きっかけは、お医者さんの言葉じゃありません。家に帰って、自分でパソコンで調べた夜です。
画面に出てきたのは、こういうことでした。緑内障は視野が少しずつ狭くなっていく病気で、進行を遅らせることはできても、一度見えなくなった視野は、二度と戻らない。
その一文を、静かな部屋でひとり読んだ瞬間に、ようやく本当の意味が分かったんです。僕の目は、これから少しずつ見えなくなっていくかもしれない。しかも、もう元には戻せない。お医者さんから告げられたときより、自分で調べてその事実に行き着いたあの夜のほうが、ずっと怖かった。
そこから、治療が始まりました。目薬、飲み薬、手術も何度もしました。「これできっと良くなるはずだ」って、信じたかった。というより、信じるしかなかった。
それでも、視力は少しずつ、確実に下がっていきました。
視力が落ちていくと、いちばん最初に困ったのは、仕事でした。
僕の仕事は、図面を見る仕事です。ところが、その図面の細かい字が、だんだん読めなくなっていったんです。図面が見えない現場監督なんて、想像できますか。それまで当たり前にできていたことが、ひとつ、またひとつと、手の中からこぼれ落ちていきました。
外の現場が難しくなって、内勤に回してもらいました。見積もりや図面の仕事です。でも、そこでも同じでした。前は1回で終わっていた確認作業が、2回、3回と増えていく。間違っていないか不安で、何度も見直す。「早くしなきゃ」と焦れば焦るほど、なぜか手が止まる。
「昨日できたことが、今日できない。」
これを毎日、自分の体で味わうのが、本当につらかったんです。
悔しくて、情けなくて、でもそれを誰にも言えませんでした。弱音を吐いたら、もっと居場所がなくなる気がして。僕はその会社に、18歳のときから勤めていました。同じ高校の先輩たちにかわいがってもらって、「ここが自分の居場所だ」と、心の底から思える場所でした。その居場所で、自分の価値が静かにすり減っていく。それを黙って見ているしかない時間でした。
そして31歳のとき、僕はとうとう、視覚障害者になりました。
視覚障害者になってから、本当に苦しかったのは、ここからです。
一番つらかったのは、夜でした。
昼間は、まだいいんです。やることがあるし、人もいる。問題は、夜です。部屋が静かになって、ひとりになると、頭の中に悪い想像ばかりが押し寄せてくる。
明日も、今日と同じくらい見えているだろうか。仕事は、いつまで続けられるんだろう。これから先、ちゃんと生活していけるんだろうか。そして、いちばん怖かったのが、これです。
——眠って、明日の朝起きたら、もう何も見えなくなっていたら、どうしよう。
笑い話みたいに聞こえるかもしれません。でも当時の僕にとっては、本気の恐怖でした。考えれば考えるほど、頭の中が暗い想像で埋まっていく。不安って、いったん転がり出すと、自分では止められないんです。布団に入っても眠れない。眠るのが怖い夜が、何日も続きました。
あの頃の僕は、たぶん、心の中で半分あきらめていました。もう自分には、できることなんて残っていないんだ、と。
そんな、出口の見えない毎日の、ある日のことです。
特に何をするでもなく、何気なくつけていたテレビ。そこに、ある映像が流れてきました。
全盲の女の子が、トライアスロンをしている映像でした。
泳いでいる。自転車に乗っている。そして、走っている。
全盲なのに、です。光も、何も見えないはずなのに、水の中をまっすぐ進んでいく。風を切って走っていく。その姿を見た瞬間、僕は画面の前で、文字どおり動けなくなりました。
そして、気づいたら、涙が出ていました。
あのときなぜ泣いたのか、自分でもうまく説明できません。すごいなあ、という気持ちもあった。でもそれだけじゃなくて、たぶん、自分の中の何かを、ぐっと揺さぶられたんだと思います。見えないことを言い訳にして、半分あきらめかけていた自分を、その女の子に、まっすぐ見られたような気がしたんです。
涙が止まらないまま画面を見ていたとき、心の奥の奥から、こんな声が湧き上がってきました。
「僕より見えない子が、やってる。僕は、まだ見えてる。だったら——僕にも、できるかもしれない。」
この声が、僕のすべての始まりでした。
それまでずっと、僕は「見えなくなっていく」ことばかり数えていました。あれもできない、これもできない、と。でもあの夜、生まれて初めて、「まだ、できる」のほうを数えた気がします。失ったものじゃなくて、まだ手の中に残っているもののほうを。
そして僕は、トライアスロンを始めようと決めました。
誰かに勧められたわけでも、ちゃんとした計画があったわけでもありません。名前も知らない、たった一人の女の子の、数十秒の映像。それが、僕の人生のスタートの合図になったんです。
「やろう」と決めたのはいいものの、すぐに、現実の壁にぶつかりました。
トライアスロンって、こっそり自分だけで始められるものじゃないんです。泳ぎを教わって、自転車に乗って、走る。とくに目が見えにくい僕の場合、誰かに支えてもらわないと、そもそも練習すらできません。どこかのトライアスロン倶楽部に入って、教わるしかない。
でも、ここで足がすくみました。
——目が見えにくい僕なんかが入って、迷惑じゃないだろうか。「そういう人はちょっと…」と断られたら、どうしよう。せっかく湧いた気持ちが、ぺしゃんこにされたら立ち直れない気がする。
正直に言うと、僕は昔から、失敗するのがすごく怖いタイプでした。中学生の頃なんて、好きな子に「どうせ相手にされない」と勝手に決めつけて、告白すらできずに逃げたくらいです。断られる前に、自分から引いてしまう。それが、長いあいだの僕のクセでした。
それでも、あの女の子の泳ぐ姿が、頭から離れなかった。ここで引いたら、あの夜の自分に嘘をつくことになる。そう思って、僕はあるトライアスロン倶楽部に、思い切って問い合わせをしました。
聞いたのは、たったひとことです。
「目が見えにくいんですけど、こんな僕でも、受け入れてもらえますか?」
送るとき、指が少し震えていたのを覚えています。返事が来るまでの時間が、やけに長く感じました。
返ってきた答えは、こうでした。
「大丈夫ですよ。」
たった一言。でも、あの一言で、閉じかけていたドアが、すっと開いた感じがしました。あんなに怖かった一歩が、踏み出してみたら、思っていたよりずっとあっさり受け止めてもらえた。あのとき勇気を出して問い合わせた自分を、今でも少し褒めてあげたいです。
ここからが、この話のいちばん不思議なところです。
受け入れてもらえた倶楽部に通い始めて、僕に最初の手ほどきをしてくれたコーチがいました。泳ぎ方も、自転車も、走りも、何も分からない僕に、ゼロから教えてくれた人です。
その人と話していくうちに、僕は信じられない事実を知ることになります。
そのコーチが、あの夜テレビで見た、全盲の女の子のコーチだったんです。
最初に聞いたとき、頭が追いつきませんでした。僕がトライアスロンを始めるきっかけになった、名前も知らないあの女の子。その子を支えていた人が、めぐりめぐって、僕自身の最初のコーチになっていた。日本中にトライアスロン倶楽部はたくさんあるのに、僕がたまたま問い合わせた一つに、その人がいた。
偶然と言ってしまえば偶然です。でも僕には、これを運命としか呼べませんでした。テレビの中の点と、震えながら問い合わせた僕の点が、一本の線でつながった瞬間でした。
そのコーチとは、その後、何年も一緒に世界を回ることになります。海外の大会を転戦して、アジアの選手権では2年続けて表彰台に立たせてもらい、世界ランキングは最高で6位まで上がりました。目が見えにくい僕が、世界の舞台で戦う——31歳のあの夜、暗い部屋で布団にくるまっていた自分には、想像もできなかった景色です。
そして、ありがたいことに、その縁は今も続いています。2026年のあるレースでも、その人が僕のガイドをしてくれる予定です。あの夜から始まった一本の線は、15年たった今も、ちゃんとつながったままなんです。
こう書くと、決意した僕がいきなり強くなったみたいに聞こえるかもしれません。でも、まったくそんなことはありませんでした。
始めた頃の僕は、25メートルも泳げませんでした。プールの端から端まで、たどり着けないんです。走れば、1キロでもう膝が痛い。やり方も分からない。目が見えにくい中で体を動かすのは、やっぱり怖さもあります。ぶつかるかもしれない。転ぶかもしれない。誰かに迷惑をかけるかもしれない。やらない理由なら、いくらでも思いつきました。
そんなとき、僕は自分にこう言い聞かせました。
「強くなるためじゃなくていい。まずは、今日を生きるためにやってみよう。」
これが、思いのほか効きました。「今日は練習がある」という予定がひとつあるだけで、朝の空気が変わるんです。あれほど怖かった夜にも、「明日は泳ぎに行く日だ」という小さな灯りがともる。不安がゼロになったわけじゃありません。でも、不安を抱えたままでも、一日がちゃんと前に進むようになったんです。
25メートルを、まず2回続けて泳げるようになる。次は4回。膝が痛くても、昨日より100メートル長く走れた日は、それだけで嬉しい。1ミリでも前に進めたら、その日の自分を責めなくてよくなる。そうやって少しずつ積み上げていったら、トライアスロンを始めて半年後、初めて出た大会で、僕は表彰台のいちばん上に立たせてもらいました。あのときコーチと一緒に表彰台に上がれたことは、今でも忘れられません。
46歳になった今、僕は226kmのIRONMANを走るようになりました。盲導犬シュクレがいて、ガイドという仲間がいて、年間50回前後、人前で話す仕事もあります。
不思議なんですけど、目が見えていた頃よりも、今のほうが、ずっと充実した毎日です。スポーツは、僕に3つのものをくれました。外に出る理由と、仲間と、自分を責めない時間です。
そして、これだけは断言できます。僕の人生が変わったのは、僕が強かったからでも、根性があったからでもありません。あの夜、テレビの中の女の子に「まだできるかもしれない」と思わせてもらえたから。震えながら問い合わせた先に、「大丈夫ですよ」と受け止めてくれる人がいたから。気合いじゃなくて、ほんの少しの工夫と、支えてくれる人たちのおかげなんです。
全部、あの夜から始まりました。
だから僕は、こうしてブログを書き、SNSで発信し、講演を続けています。あの日の僕みたいに、暗い部屋で動けなくなっている誰かにとっての「テレビの夜」に、今度は僕がなりたいからです。
ここまで読んでくれて、ありがとうございます。
もし今、あなたが動けない場所にいるなら、無理に大きな一歩を踏み出さなくていいです。いきなり世界を変えようとしなくていい。
まずは、「あの人にできるなら、僕にも(私にも)できるかもしれない」と思える誰かを、ひとりだけ見つけてみてください。
それは、テレビの中の人でもいい。SNSで見かけた人でもいい。職場の先輩でも、家族でも、この記事の中の僕でも構いません。
そして、もしほんの少しだけ勇気が出たら、僕が震えながら問い合わせのメッセージを送ったように、誰かに「こんな僕でも、いいですか?」と聞いてみてください。怖いのは、送る瞬間だけです。意外と、「大丈夫ですよ」と返してくれる人は、あなたの近くにもいます。
その誰かが見つかった日。あなたが小さく一歩を踏み出した日。それが、あなたのスタートの日です。
僕の人生は、名前も知らない誰かの挑戦に、変えてもらった。だから今度は、僕が誰かの「テレビの夜」になる。
2026年9月13日、IRONMANジャパンみなみ北海道(225.8km)に挑みます。この挑戦は、支えてくれる人たちと一緒に作る物語です。日々の練習やレースの様子を発信しているので、そばで見届けてもらえたら嬉しいです。
中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
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RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
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