海の中で、ロープが左へすっと引かれる。それが僕にとっての「左折のウインカー」。声のいらない、ガイドと僕だけの合図で、3.8kmを泳ぎ抜きます。
もしあなたが、海の中で「見えない」って、どんな感覚なんだろうと想像したことがあるなら——。
もしあなたが、「言葉なしで気持ちを伝える」という関係に、興味があるなら——。
もしあなたが、信頼ということを、もう一度、深く考えたいなら——。
この記事は、あなたのためのものです。
こんにちは。視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・中澤 隆(なかざわ りゅう)です。盲導犬シュクレと一緒に、IRONMAN(226km)のサブ11時間挑戦を続けています。
IRONMANは、スイム3.8km、バイク180km、ラン42.195km。合わせて226kmを、一日で泳ぎ、漕ぎ、走り抜ける競技です。その一番最初に待っているのが、海でのスイム3.8kmです。
今日は、その3.8kmを、僕がどうやって泳ぎ抜いているのか——ガイドとロープで繋がって泳ぐ世界を、できるだけ僕自身の言葉で、一次情報でお伝えします。読み終わるころには、「見えない海を、ロープ1本で渡る」という感覚が、少しだけあなたにも伝わっていたら嬉しいです。
視覚障害B2の僕がスイムをすると、まず大前提として——海の中で何も見えません。
陸の上でも見えにくいのに、海の中は当然もっと見えない。
ゴーグルの向こうは、ただ青いような、白いような、ぼやけた光があるだけ。輪郭も、距離も、ありません。
陸を走っているときは、まだいいんです。足の裏に地面の感触があるし、ガイドとロープで腰を結んで並走していれば、「今、まっすぐ進んでいる」という手がかりがあります。
でも、海の中には、その手がかりがほとんどありません。
水に浮いていると、上も下も、右も左も、自分がどこを向いているのかさえ、だんだん分からなくなってくる。
陸の上で目を閉じてその場で10回まわってみてください。
立っているだけでも、もうどっちが正面か分からなくなりますよね。
海の中の僕は、ずっとあれに近い感覚の中で、3.8kmを泳いでいます。
普通の人でも、海のスイムは怖いと言います。
プールと違って、足はつかないし、壁もない。コースロープもない。
視覚障害B2の僕にとって、それは文字どおり「見えない世界での3.8km」です。
では、どうやって泳ぐのか。答えは、ガイドとロープで繋がるという技術です。
僕は、自分だけの力で泳ぎ切っているのではありません。いつも、すぐ隣にガイドがいる。その人が、僕の見えない世界を、ロープ1本で繋ぎとめてくれています。
パラトライアスロンでは、視覚障害の選手はガイドとロープで繋がって泳ぎます。
このロープが、僕にとっての「目」であり「方向」であり「安心」です。
ロープの長さは、お互いの邪魔にならない程度。事前にガイドと相談して、何センチにするかを決めます。
長すぎると合図が伝わりにくいし、お互いの位置がぶれてしまう。
短すぎると、腕を回したときに手が当たってしまって、二人とも泳ぎづらい。
だから、ちょうどいい長さを、二人で何度も泳ぎながら探していきます。
ロープは、お互いの腰や太もも、または手首に結びます。
どこに結ぶかも、人によって、ペアによって違います。
僕とガイドは、お互いがいちばん合図を感じ取りやすい場所を、相談して決めています。
そして、二人並んで泳ぐ。
役割は、はっきり分かれています。
つまり、二人で一人分の「泳ぐ力」と「見る力」を分担しているんです。
僕が方向まで気にしようとすると、泳ぎが乱れる。ガイドが泳ぎまで僕の代わりにはできない。
だから、お互いの役割を信じて、ロープ1本に預ける。
ロープが、見えない僕とガイドを、海の中で繋いでくれています。
このたった1本のロープが、僕の3.8kmの命綱です。
海の中で、ガイドは僕に何を伝えるか。
言葉では伝わりません。なぜなら、二人とも顔を水に沈めて泳いでいるからです。
水の中で「右だよ」「左だよ」と叫んでも、聞こえません。
顔を上げて話している時間もありません。その間にも、コースはどんどん進んでいくからです。
だから、ガイドはロープの引っ張りと、体の接触で僕に合図を送ります。
声のいらない、僕とガイドだけの「言葉」です。
そして、すべての合図の土台になる、いちばん大事な約束があります。
大前提として、ガイドは僕の左側で泳ぎます。毎回、必ず、左側。
これが固定されているから、僕は「左側から伝わってくるもの」を信じればいい。位置が毎回変わったら、合図の意味そのものが分からなくなってしまいます。
ガイドが伴走ロープを左側に引っ張る。
僕はそれを感じて、進行方向を左に変えていく。
ロープが左へ引かれる、その小さな力の変化が、僕にとっての「左折のウインカー」です。
ガイドが僕の左側に、体をぶつけてくる。
押された分、僕は自然と右へ進んでいく。ロープではなく、体で「右」を伝えてくれる。
左から体が当たってくる感覚——それが「右へ寄って」という合図です。慌てる必要はなくて、押された方向へ、素直に進むだけ。
ガイドがロープを引っ張る。引っ張られた分、僕はペースを上げる。
逆に「ペースを落とす」合図はありません。途中で緩めたり止まったりせず、淡々と前へ進み続けます。
だから僕の中には「ここで休もう」という選択肢が、そもそもありません。前へ、前へ。ペースは上げることはあっても、止めることはない。
ガイドが僕の体を手でトントンと叩く。
これが「何かあるよ」の合図。叩かれたら、ガイドの次の動きに集中する。
僕には見えていない「何か」が、前にあるのかもしれない。だからこの合図が来たら、いつも以上にロープと体に神経を集中させます。
これだけです。
たった四つ。
シンプルだからこそ、海の中の混乱の中でも、間違えずに伝わる。
言葉をたくさん用意するより、合図を絞る。
これも、見えない世界で僕が大事にしている考え方の一つです。選択肢を増やすほど、本番で迷う。だから、伝えることは最小限に削ぎ落とす。
海のスイムでは、思い通りにいかないことが、必ず起きます。
でも僕は、いちいち慌てません。慌てたら、その分だけ泳ぎが乱れて、もっと苦しくなるからです。
3.8kmのスイムは、大勢が同じ海で一斉に泳ぎます。スタートの合図と同時に、何百人もが同じ方向へ泳ぎ出す。だから、序盤は特に、体と体がぶつかり合います。他の選手が近づいてきても、見えない僕に避ける手立てはありません。ぶつかったら、ぶつかったまま。それだけです。避けようとして乱れるより、淡々と前に進む。
波で揺られても、特別なことはしません。「泳ぎづらいな」と思うだけ。
波と戦っても仕方ない。思い通りに進まないことを受け入れて、また1ストローク、前に進みます。波を恨んでも、波はなくなりません。だったら、波がある前提で、ただ淡々と泳ぐ。
ここで誤解しないでほしいのは、僕は「我慢強いから」割り切っているわけではない、ということです。
そうではなくて——コントロールできないことに力を使うのが、いちばんもったいないと知っているからです。
他の選手がぶつかってくるかどうか。
波がいつ来るか。
それは、僕にはどうにもできません。
どうにもできないことに腹を立てたり、怖がったりしている間に、3.8kmはどんどん長くなっていきます。
見えない世界で大事なのは、コントロールできないことを手放すこと。
そして、コントロールできることに、全部のエネルギーを注ぐこと。
できるのは、ガイドを信じて、1ミリの行動を続けることだけです。
「ぶつかったら、ぶつかったまま」。
この割り切りは、冷たさではありません。
僕にとっては、前へ進み続けるための、いちばん優しい考え方なんです。
ここまで読んで、「本番、よくそんなに落ち着いていられるな」と思った方がいるかもしれません。
その理由は、はっきりしています。
本番の3.8kmは、事前の段取りで、ほとんど決まっているからです。
僕は即興が、とても苦手です。
その場の判断で何かを変えるのは、見えない海の中では特に危ない。
だからこそ、本番までに「決められることは、全部決めておく」。これが僕のやり方です。
たとえばウエットスーツの装着順。
「そんな細かいこと?」と思うかもしれません。
でも、本番の朝は、誰でも緊張しています。緊張していると、見える人でも手順が飛びます。見えない僕なら、なおさらです。
だから、「まず右脚、次に左脚、次に……」と、毎回まったく同じ順番にしておく。
そうすると、頭で考えなくても、手が勝手に動く。
本番の朝に「あれ、どっちからだっけ」と迷う時間が、ゼロになります。
呼吸のサイドも同じです。
ガイドが僕の左側にいるので、合図を感じ取りやすいように、呼吸の向きもあらかじめ決めておく。
こうした一つひとつの「決め」が、本番の混乱を減らしてくれます。
水温やコース、スタート位置は、前日に二人で確認します。
僕には海の様子が見えないので、ガイドが見て、言葉で教えてくれる。
「今日はこういう海だよ」と前日に共有しておくだけで、当日の不安がぐっと小さくなります。
これだけ決めておくと、本番で考えることは、ほぼゼロ。
体が、決めたことを自動的に実行するだけです。
本番は、決めたことを信じて泳ぐ時間。考える時間ではありません。
そして、これはスイムだけの話ではありません。
バイクは二人乗りのタンデム自転車で、前後に乗って二人で漕ぎます。ランはロープで腰を結んで並走します。
種目が変わっても、根っこは同じ。事前にガイドと決めて、本番はそれを信じて実行する。これがIRONMANを通しての、僕とガイドのやり方です。
3.8kmという長い距離を、どうしたら泳ぎ切れるか。
答えは——「1ミリの行動を、何千回も繰り返すだけ」です。
1ストローク。
また1ストローク。
また1ストローク。
1回の腕の動きは、たった数十センチ前に進むだけ。
でも、それを何千回繰り返すと、3.8kmになる。
もし僕が、スタートの瞬間に「これから3.8kmも泳ぐのか」と全体を考えてしまったら、その重さに押しつぶされてしまいます。
3.8kmは、想像すると、とてつもなく長い。
気合いで3.8km泳ごうとすると、最初の500mで疲れてしまう。
体力ではなく、気持ちが先に折れるんです。
だから僕は、「3.8km」を考えません。
考えるのは、いつも「次の1ストローク」だけ。
今、目の前の一かきを、ていねいにやる。それを、ただ淡々と続ける。
1ミリの行動の積み重ねで泳ぐと、不思議と淡々と続けられる。
気づいたら、500mが過ぎている。1kmが過ぎている。
そしていつの間にか、3.8kmを泳ぎ終えている。
これは、僕が講演でもいちばん伝えたいことの一つです。
大きなことを成し遂げる人は、特別な気合いを持っている人ではありません。
小さな1ミリの行動を、誰よりも長く、淡々と続けられる人です。
視力を失っていく中で、僕がたどり着いたのが、この「1ミリの行動」という考え方でした。
一気に変えようとせず、今日の一歩だけに集中する。
海の3.8kmも、IRONMANの226kmも、そして人生も——全部、1ミリの積み重ねでできています。
3.8km泳ぎ終わって、海から上がった瞬間。
足の裏に、地面の感触が戻ってくる。
ぼやけた青い世界から、また陸の世界へ。
その瞬間、僕がガイドに伝える言葉は、いつも同じです。
「ありがとう」
1時間20分前後。
その間ずっと、ガイドは僕の見えない世界を、ロープで支えてくれていました。
自分も同じ3.8kmを泳ぎながら、コースを見て、ブイの位置を判断して、僕に合図を送り続けてくれた。
だから僕は、「お疲れさま」とは言いません。
「お疲れさま」は、お互いをねぎらう言葉。
でも僕の正直な気持ちは、それよりもっと深いところにあります。
「ありがとう」。
ガイドがいなかったら、僕は今、ここに立っていない。
海の真ん中で、方向を見失って、立ち止まっていたかもしれない。
その僕を、ここまで連れてきてくれたのは、ガイドのロープです。
この「ありがとう」は、3.8kmの最後の1ストロークみたいなものです。
泳ぎの締めくくりであり、次のバイク、次のランへ進むための、最初の一歩でもある。
言葉にすることで、僕は「支えられて、ここまで来た」という事実を、もう一度かみしめます。
視覚障害B2の僕は、海の中で、ロープなしには泳げません。
ガイドという、もう一人の存在が、絶対に必要です。
それは、弱さではなくて——僕にとっては、前に進むための、いちばん確かな方法です。
ここまで読んでくださったあなたに、一つだけ、問いかけさせてください。
あなたにも「ロープ」がありますか。
あなたの人生で、見えない世界に踏み出すとき、引っ張ってくれる人・引っ張られている人はいますか。
僕とガイドのロープは、目に見えます。
でも、あなたと、あなたの大切な人を繋いでいるロープは、目には見えないかもしれません。
それでも、確かにそこにある。あなたが進もうとするとき、そっと方向を教えてくれて、迷ったときに引っ張ってくれる——そんな存在が、きっといます。
そのロープを、大事にしてください。
そして、あなたも誰かの「ロープ」になってください。
あなたが誰かの方向を照らし、誰かが見えない海を渡るのを、支える側にもなれます。
長い距離は、ロープなしでは泳げません。
人生という長い距離も、きっと同じです。
支えられて、繋がる輪の中で、僕たちは前へ進んでいきます。
見えない世界は、ロープでだけ渡れる。気合いじゃなく、信頼と、1ミリの行動で。
あなたの今日が、誰かと繋がる、温かい1ミリでありますように。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
2026年9月13日、IRONMANジャパンみなみ北海道(225.8km)に挑みます。この挑戦は、支えてくれる人たちと一緒に作る物語です。日々の練習やレースの様子を発信しているので、そばで見届けてもらえたら嬉しいです。
中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
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RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
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