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📅 2026.07.23 | RYU NAKAZAWA
🎤 講演

アスリート雇用という働き方|5年契約から無期雇用までの中身

⏱ 約8分で読めます(4,988字)

「このまま続けるのは難しいよね」。13年勤めた会社での、事実上のクビ。そこから僕は、もう一度「ここにいていい」と思える場所を探し始めました。

もしあなたが、今の働き方に、先の見えない不安を感じているなら——。

もしあなたが、「もう自分を必要としてくれる場所なんてない」と思いかけているなら——。

もしあなたが、年齢を理由に、新しい挑戦をあきらめかけているなら——。

この記事は、あなたのためのものです。

こんにちは。視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・中澤 隆(なかざわ りゅう)です。盲導犬シュクレと暮らしながら、IRONMAN(226km)のサブ11時間挑戦と、年間50回前後の講演を続けています。

今日は、「アスリート雇用」という働き方の話をします。聞き慣れない言葉かもしれません。

一度すべての居場所を失った僕が、もう一度「ここにいていい」と思える場所を取り戻すまで。最初は不安だらけの5年契約から、無期契約社員になるまでの、その中身を、できるだけ正直に書きます。同じように、先の見えない働き方の中で踏ん張っている人に、何か届けばうれしいです。

📖 この記事の目次
  1. 13年の居場所が、静かに終わった日
  2. 競技の結果が、思いがけず仕事につながった
  3. アスリート雇用とは、どういう働き方か
  4. 最初は5年契約——「5年後、僕はどうなるんだろう」
  5. 一度クビになった僕だからこそ、わかること
  6. 評価されて、無期契約社員になった日
  7. 「応援される」ことは、責任でもあった
  8. 70歳の同僚と、「年齢じゃなく、どう生きるか」
  9. これを読んでいるあなたへ

13年の居場所が、静かに終わった日

アスリート雇用の話をするには、まず、ここから話さないといけません。

僕は18歳で電気工事の現場の仕事に就いて、そこで初めて「自分の居場所ができた」と思えました。同じ高校の先輩たちにかわいがられて、毎日通うのが楽しかった。ここが自分の場所だと、本気で思っていました。

でも27歳で緑内障と診断され、視力が少しずつ下がっていきました。図面を見る仕事なのに、その図面の細かい字が、だんだん見えなくなっていったんです。

1回で済んでいた確認が、2回、3回に増える。
「早くしなきゃ」と思うほど、手が止まる。昨日できたことが、今日できない。まわりに追いつこうと焦るほど、ミスが怖くなって、また手が止まる。悔しくて、情けなくて、でもそれを誰にも言えませんでした。「見えないんです」と打ち明けることが、なぜか、いちばん怖かったんです。

そして31歳。やれる仕事が少しずつ減っていって、ある日、「このまま続けるのは難しいよね」と言われました。
事実上のクビでした。13年勤めて、ここが自分の居場所だと思っていた会社が、声を荒げるでもなく、静かに終わっていった日です。めちゃくちゃ悔しかった。怒りでも悲しみでもない、どう名前をつけていいか分からない感情が、ずっと胸に残りました。


競技の結果が、思いがけず仕事につながった

会社を離れたあと、相談していた方の「大学、行ってみたら?」という一言で、僕は人生で初めての大学受験をしました。鍼灸の学科に入り、必死に勉強して、あん摩マッサージ指圧師の国家資格に合格しました。「まだ自分は終わってない」という証明を、ひとつ手に入れたんです。

そして、その頃には、テレビで見た全盲の女の子に背中を押されて始めたトライアスロンが、少しずつ形になっていました。
始めた頃は25メートルも泳げなかった僕が、半年後の初レースで思いがけない結果を出し、その後はアジア選手権で2連覇、世界ランキングは最高6位まで行きました。

その競技の結果が、思いもしなかった形で、次の仕事につながっていきます。
「アスリート雇用」という枠で、企業に迎えてもらえることになったんです。

🔑 ピンチはチャンス、カギは工夫

僕の合言葉は「ピンチはチャンス。チャンスに変えるカギは、気合いじゃなくて工夫」です。仕事を失ったことは、間違いなくピンチでした。でも、そのピンチがなければ、僕は大学にも行かず、トライアスロンも始めず、アスリート雇用にもたどり着かなかった。ピンチが、次の扉の前まで連れてきてくれたんです。


アスリート雇用とは、どういう働き方か

「アスリート雇用」と聞いて、ピンとくる方は少ないかもしれません。

かんたんに言うと、競技を続けるアスリートを、社員として迎えてくれる働き方です。
僕の場合は、企業の一員として籍を置きながら、トライアスロンの競技活動も続けさせてもらっています。会社に応援してもらいながら競技を続け、競技で得たものを、また会社や社会に返していく。そういう関係です。

大事なのは、「障害があるから雇ってもらう」のとは、少し違うということです。
もちろん、視覚障害B2という僕の状況を理解してもらった上での雇用です。でもそこには、「このアスリートと一緒に、何かをやっていきたい」という気持ちがありました。僕は、お荷物としてではなく、戦力として迎えてもらえた。その感覚が、何よりありがたかったんです。

一度は「もう必要とされない」と思った僕が、もう一度「あなたが必要だ」と言ってもらえる。
この働き方に出会えたことは、僕にとって本当に大きな転機でした。図面が見えなくなって居場所を失った僕が、視力を失う中でも、支えられて、繋がる輪の中で、また働けるようになった。人生は、終わらなかったんです。


最初は5年契約——「5年後、僕はどうなるんだろう」

とはいえ、最初から安定していたわけではありません。

スタートは、5年契約の契約社員でした。

正直に言うと、不安はありました。
一度クビになった経験があるからこそ、「5年後、契約が終わったら、僕はどうなるんだろう」という思いが、心のどこかに、ずっとありました。期限のある契約というのは、ありがたい一方で、先の見えなさも一緒に抱えることになります。

でも、ここで弱音を言い続けても、何も変わりません。
僕にできるのは、目の前の競技と、目の前の仕事に、1ミリずつ向き合い続けることだけでした。

「5年後どうなるか」は、僕にはコントロールできません。
でも、「今日、何を積めるか」は、自分で決められる。だから僕は、心配する代わりに、目の前の一日に集中することにしました。今日の練習を、ちゃんとやる。今日の仕事を、できる形で、ちゃんとこなす。それを、毎日くり返す。

🔑 不安は、行動の量で薄まる

「5年後どうしよう」と考えている時間は、不安が増えるだけで、何も前に進みません。僕がたどり着いた答えは、シンプルです。不安を消そうとするんじゃなく、目の前の行動で、不安が入ってくる隙間を埋める。今日できることを1ミリ積む。その積み重ねだけが、先の見えない不安に対する、いちばん確かな答えでした。


一度クビになった僕だからこそ、わかること

5年契約の不安と向き合えたのには、もう一つ理由があります。

僕は、一度、居場所を失った経験があるからです。

13年勤めた会社を、事実上クビになった。あのときの悔しさを知っているからこそ、僕は、もう一度迎えてもらえた今の場所を、当たり前のものだとは思えませんでした。「契約が5年だろうと、ここにいられること自体が、ありがたいことなんだ」。心の底から、そう思えたんです。

失った経験は、つらい記憶です。
でも、その記憶があるからこそ、いま手の中にあるものの重みが、人一倍わかる。「あるのが当たり前」じゃなく、「あることが、ありがたい」。一度ゼロになったからこそ、僕は、目の前の一日を大事にできるようになりました。

これも、僕の合言葉「ピンチはチャンス」の一つの形だと思います。
クビになったというピンチは、「失う痛み」を教えてくれた。そしてその痛みが、次の場所で、僕を誰よりも真剣にしてくれた。マイナスだったはずの経験が、次のステージでは、僕の強みに変わっていたんです。


評価されて、無期契約社員になった日

そうやって積み重ねていった結果、僕は評価され、無期契約社員になりました

「5年で終わるかもしれない」場所が、「ここにいていい」場所に変わった瞬間です。

一度すべての居場所を失った僕にとって、これがどれだけ大きいことか。
13年の居場所が静かに終わったあの日の悔しさを、僕はまだ覚えています。だからこそ、「期限つき」が「期限なし」に変わったことの重みが、人一倍わかるんです。

一度居場所を失ったからこそ、もう一度もらえた居場所の重みがわかる。不安な契約期間も、1ミリずつ積めば、ちゃんと未来につながる。

これは、気合いで勝ち取ったものではありません。
できないことが増えていく中で、「じゃあ、どうやったらできるか」を工夫し続けた、その積み重ねを、まわりが見ていてくれた。支えられて、繋がる輪の中で、たどり着いた場所です。


「応援される」ことは、責任でもあった

アスリート雇用という働き方をして、僕が学んだことが、もう一つあります。

それは、「応援される」ということが、ただ気持ちのいいことではなく、責任でもある、ということです。

会社は、僕の競技活動を応援してくれています。
時間をくれて、環境を整えてくれて、「がんばってこい」と送り出してくれる。これは、本当にありがたいことです。でも、応援してもらうということは、その期待に、自分の生き方で応えていくということでもあります。

一度、居場所を失った経験があるからこそ、僕はこの責任を、軽く考えたくありません。
だから僕は、見られていないところでも、手を抜かないと決めています。朝は4時半から6時の間に起きて、練習を積む。誰かが見ているからやるのではなく、応援してくれる人たちに恥じない自分でいたいから、やる。それが、応援される側になった僕の、自分なりの返し方です。

🔑 応援は、もらいっぱなしにしない

支えてもらうのは、弱さではありません。視覚障害B2の僕は、競技も生活も、たくさんの人に支えてもらって成り立っています。大事なのは、その応援をもらいっぱなしにしないこと。挑み続ける姿を見せること、結果が出ても出なくても、ひたむきに取り組むこと。それが、応援してくれる人たちへの、いちばんの恩返しだと思っています。


70歳の同僚と、「年齢じゃなく、どう生きるか」

このアスリート雇用という働き方で、僕にはもうひとつ、大きな出会いがありました。

社内には、アスリート雇用の仲間が5人ほどいます。
そして、その中の最高齢は、なんと70歳なんです。

70歳で、現役のアスリートとして、競技を続けている。
その姿を間近で見たとき、僕の中で、何かがガラッと変わりました。

🔑 年齢じゃなく、どう生きるか

70歳の同僚を見て、僕は確信しました。大事なのは「年齢じゃなくて、どう生きるか」なんだ、と。何歳だから、もう挑戦できない。そんなものは、思い込みでしかない。だから僕も決めました。「僕も、70歳まで挑戦を続けたい」。これは僕の、もうひとつの合言葉「人生現役」そのものです。

46歳の今、僕はIRONMANのサブ11時間に挑戦し続けています。
「46歳でまだ挑戦するの?」と言われることもあります。でも、僕の前には、70歳で挑戦を続けている先輩がいる。だから僕は、まだまだ通過点にいるだけなんです。

「もう若くないから」「もういい歳だから」。
そうやって、年齢を言い訳にして、挑戦をたたんでしまうのは、簡単です。でも、70歳の同僚の背中は、その言い訳を、まるごと吹き飛ばしてくれました。何歳であっても、人は挑み続けられる。それを、言葉ではなく、生きざまで教えてくれたんです。


これを読んでいるあなたへ

もし今、あなたが、先の見えない働き方の中で、不安を抱えているなら。

あるいは、「もう自分を必要としてくれる場所はない」と感じているなら。
あるいは、年齢を理由に、何かをあきらめかけているなら。

僕の経験から、伝えたいことがあります。

一度居場所を失っても、人生は終わりません。
5年契約」のような不安な期間も、目の前のことを1ミリずつ積み重ねていけば、「期限なし」の安心に変わっていくことがあります。気合いじゃなくて、工夫と、続ける力で。

そして、年齢は、挑戦をやめる理由にはなりません。
僕の隣には、70歳で現役を続ける先輩がいます。大事なのは、何歳かじゃない。どう生きるかです。

ピンチはチャンス。一度クビになった僕が、もう一度「あなたが必要だ」と言われる場所にたどり着けた。年齢じゃなく、どう生きるか。僕は人生現役でいたい。

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「視覚障害B2の生活」「IRONMAN サブ11挑戦」「1ミリの行動」「気合いより1ミリ」をテーマに、講演を続けています。学校・企業・自治体問わず、対応可能です。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。

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💬コメント

最後まで読んでくれて、ありがとうございます

中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。

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RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
盲導犬シュクレと共に、1ミリの行動を続ける人