白杖を持っているのに、スマホの画面を見ている人。「なんだ、見えてるじゃないか」と思われがちなその姿こそ、僕のリアルです。視覚障害は、真っ黒一色ではありません。薄いグレーから濃いグレーまで、無数の濃さがあります。
もしあなたが、「視覚障害の人は、世界が真っ暗なんだ」と思っているなら——。
もしあなたが、白杖を持つ人や盲導犬を連れた人を見て、どう接していいか戸惑った経験があるなら——。
もしあなたが、見えにくさのある人と、もっと自然に関わりたいと思っているなら——。
この記事は、あなたのためのものです。
こんにちは。視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・中澤 隆(なかざわ りゅう)です。盲導犬シュクレと暮らしながら、IRONMAN(226km)のサブ11時間挑戦と、年間50回前後の講演を続けています。僕自身、全盲ではなく、見えにくさのある一人です。
今日お伝えしたいのは、たったひとつ。視覚障害は、真っ暗とは限らないということです。見える・見えないの二択ではなく、その間には広いグラデーションがある。そのことを、当事者の僕からお話しします。
講演に行くと、本当によく感じることがあります。それは、多くの人が「視覚障害の人=何も見えない、真っ暗な世界」というイメージを持っている、ということです。
これは、決して悪気のある誤解ではありません。テレビや映画で描かれる視覚障害者は、たいてい全盲。目隠しをして「見えない体験」をするワークショップも多い。だから、視覚障害といえば真っ暗、と思うのは自然なことだと思います。
むしろ、こうした「見えない体験」は、視覚障害を知るきっかけとしてはとても良いものだと思います。僕も、その大切さは感じています。ただ、ひとつだけ気をつけたいのは、目隠しの体験は「全盲の世界」の一部であって、視覚障害のすべてではない、ということ。実際には、目隠しをした真っ暗な世界とはまったく違う見え方をしている人が、たくさんいる。だから、体験で終わらせず、「実は見え方には幅があるんだ」というところまで知ってもらえたら、理解はもっと深まると思うんです。
でも、実際は少し違います。視覚障害のある人の多くは、何かしら見えているんです。全く見えない人ももちろんいますが、それは視覚障害者の一部。見え方には、想像以上に幅があります。
視覚障害は、真っ黒一色じゃない。薄いグレーから濃いグレーまで、無数の濃さがある。
では、「見えにくさ」とは、具体的にどういうことか。実は、ひとことで言えないくらい、いろんなかたちがあります。
たとえば、ぼんやりと霞んで見える人。視界の一部が欠けて、見える範囲が狭くなっている人。明るい場所がまぶしくてつらい人。逆に、暗いところがとても見えにくい人。細かいものだけが見分けられない人。中心は見えるけれど周りが見えない人、その反対の人——。
これだけ挙げても、まだ全部ではありません。原因となる病気もさまざまだし、進み具合も人によって違う。だから、「見えにくい」と言っても、その中身は一人ひとりまったく別物なんです。同じ視覚障害という言葉でくくられていても、見ている世界は、みんな違います。
もうひとつ、見落とされがちなことがあります。それは、見えにくさは、いつも同じとは限らない、ということです。同じ人でも、明るい場所と暗い場所では見え方が変わることがあるし、体調や疲れ具合でも変わる。さっきまで見えていたものが、場所が変わると見えにくくなる。そういうこともあるんです。だから、「あの人はこの前これが見えていたのに」と思っても、状況が変われば見え方も変わる。見えにくさは、固定された一枚の写真ではなく、状況によって移ろうものなんです。
「視覚障害」というたったひとつの言葉の中に、何通りもの見え方が入っています。だから、当事者と話すときに大切なのは、「あなたはどんなふうに見えていますか」と、その人自身に聞くこと。決めつけず、一人ひとりに耳を傾ける。それが、いちばん正確な理解への近道です。マニュアル通りの対応より、目の前のその人に合わせること。そのほうが、ずっと相手に届きます。
僕自身のことをお話しすると、僕は視覚障害B2。これは、全盲ではなく、一部は見えている状態です。
細かい字は見えにくいけれど、大きなかたちや、明るさや、ぼんやりした輪郭は感じ取れる。視界は霞んでいますが、真っ暗ではありません。27歳で緑内障と診断されてから、僕の見え方は少しずつ変わってきましたが、今も「見える部分」と「見えにくい部分」が、僕の中に同居しています。
だから、街で僕を見かけても、ぱっと見では視覚障害があるとわからないことも多いと思います。白杖を持っていたり、盲導犬シュクレと一緒だったりするから「あ、目が不自由なのかな」とわかってもらえる。でも、道具がなければ、見えにくさは外からは見えにくい。これも、視覚障害のグラデーションの、ひとつの現れなんです。
僕は27歳で緑内障と診断されてから、少しずつ見え方が変わってきました。だから「ずっと見えなかった」のではなく、「見えていたものが、だんだん見えにくくなっていった」。今も、見える部分は残っています。こういう、途中から見えにくくなった人、少しずつ変わっていく人も、視覚障害のグラデーションの中にはたくさんいます。生まれつきの人もいれば、僕のように途中からの人もいる。一人ひとり、たどってきた道も違うんです。
このことを知ってもらえると、もうひとつ伝わることがあります。それは、視覚障害は、誰にとっても「遠い世界の話」ではない、ということです。僕も、27歳まではごく普通に見えていました。それが、ある日の異変から、少しずつ変わっていった。見え方というのは、年齢や病気やけがで、誰の身にも変化が起こりうるもの。だからこそ、見えにくさのグラデーションを知っておくことは、いつか自分や大切な人が、その世界に近づいたときの備えにもなる。これは、決して他人事ではないんです。
一部見えている、というのは、ときに難しさも生みます。
「見えてるなら、大丈夫だよね」と思われてしまうことがあるんです。たしかに、何かは見えている。でも、細かい字は読めないし、霞んでいるし、できないことはたくさんある。見えているように見えて、実は困っている。そのギャップが、なかなか伝わりにくい。
かといって「見えない」と言えば、今度は「全部見えないんですね」と思われる。見えると言っても、見えないと言っても、どちらも本当の自分とはちょっと違う。このもどかしさは、見えにくさのある多くの人が感じていることだと思います。
たとえば、白杖を持っているのにスマホを見ている、という場面。これを見て「なんだ、見えてるじゃないか」と思う人がいるかもしれません。でも、これは矛盾でも何でもないんです。スマホの画面を大きくしたり、音声で読み上げてもらったりすれば、見えにくくても使える。一部見えるからこそ、見える部分を最大限に活かしながら生活している。白杖と見えにくさは、ちゃんと両立するんです。こういう場面こそ、「視覚障害=全く見えない」という思い込みが、当事者を生きづらくしている例だと思います。
だからこそ、僕は言葉にして伝えることを大事にしています。「細かい字は見えにくいけれど、大きなものは見えます」「表情はわからないので、声で教えてください」。自分の見え方を具体的に伝えることで、相手も接し方がわかる。これも、繋がる輪の中で生きるための、ひとつの工夫です。
「見える」と「見えない」のどちらでもない場所にいる人がいる。その人の言葉に、耳を傾けてほしい。
では、見えにくさのある人と街で出会ったら、どうすればいいか。よく聞かれるので、僕なりの答えをお伝えします。
いちばんは、まず声をかけてもらうことです。「何かお手伝いしましょうか」のひとことで十分。もし必要なければ「大丈夫です、ありがとう」と返すだけだし、助けが要るときは具体的にお願いできます。立派なサポートをしようと気負う必要はまったくありません。最初のひとことが、何よりありがたいんです。
「見えてるみたいだから、声をかけないほうがいいかな」と遠慮する必要はありません。さっきお話ししたように、見えているように見えても困っていることはある。だから、迷ったら声をかける。それがいちばんありがたい。断られても、気を悪くしないでくださいね。声をかけてくれたその気持ちが、もう十分嬉しいんです。
もし手助けすることになったら、ひとつだけ覚えておいてほしいことがあります。それは、「どうしてほしいか」を本人に聞いてほしい、ということ。見えにくさは人それぞれだから、何が助かるかも人それぞれです。腕を貸してほしい人もいれば、言葉で道を教えてほしい人もいる。だから、よかれと思って急に体を引っ張ったりせず、「どうしましょうか」と一声かけてもらえると、とても助かります。これも、見えにくさにグラデーションがあるからこその、お願いです。一人ひとり違うからこそ、その人に聞くのがいちばんなんです。
視覚障害は、真っ暗とは限らない。見える・見えないの二択ではなく、広いグラデーションがある。今日、これだけ持って帰ってもらえたら、僕はとても嬉しいです。
このことを知っているだけで、見えにくさのある人への接し方は、ずいぶん変わると思います。「真っ暗な世界の人」という思い込みが外れて、「いろんな見え方の人がいるんだ」という前提に立てる。その前提があれば、決めつけずに、一人ひとりに向き合える。知ることは、優しさの第一歩です。
僕は講演でもこのブログでも、視覚障害のリアルを伝え続けています。それは、悲しい話をするためではなくて、誤解をほどいて、お互いがもっと自然に関われる社会に近づきたいから。グラデーションを知る人が一人増えるたびに、世界は少しずつ優しくなる。そう信じています。
講演で子どもたちに話すと、みんな本当に素直に受け止めてくれます。視覚障害は真っ暗とは限らない、ちょっと見える人もいる——そう知ったときの反応は、大人よりずっと柔らかい。子どものうちにグラデーションを知ってくれたら、その子は大人になっても、見えにくさのある人に自然に向き合えるはず。ひとつの講演、一本の記事が、未来の社会を少しずつ耕している。そう思うと、伝え続ける意味があるなと、あらためて感じるんです。
大人の場合は、もう少し違う反応が返ってくることもあります。「言われてみれば、視覚障害の人がどう見えているか、考えたこともなかった」と。これは、責められることではありません。知る機会が、これまでなかっただけ。だからこそ、僕みたいな当事者が、自分の言葉で伝えていくことに意味があると思っています。誰かが語らなければ、グラデーションは見えないまま。僕は、その語り手の一人でありたいんです。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
僕は、見える・見えないの二択の、その間にいます。全盲ではないけれど、見えにくさがある。細かい字は読めないけれど、大きなものは見える。そういう、グラデーションのちょうど真ん中あたりにいる一人です。
そして、僕のような人は、決して特別ではありません。あなたの街にも、職場にも、見えにくさのある人がきっといます。その人たちの世界が、少しでもあなたに伝わったなら——「視覚障害=真っ暗」という思い込みが、ほんの少しほどけたなら——この記事を書いた意味があります。
見えにくさには、グラデーションがある。そのことを、どうか覚えていてください。そして、街で出会ったら、ぜひ声をかけてください。その一歩が、繋がる輪を広げてくれます。今日も、僕はその輪の中で、一歩ずつ歩いています。
「視覚障害B2の生活」「IRONMAN サブ11挑戦」「1ミリの行動」「気合いより1ミリ」をテーマに、講演を続けています。学校・企業・自治体問わず、対応可能です。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
📧 つなひろワールドへお問い合わせ中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
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RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
盲導犬シュクレと共に、1ミリの行動を続ける人