「見えなくなったら、もう働けない」。31歳で会社を失った僕も、そう思い込んでいました。その思い込みを、僕自身の歩いてきた道でほどいていきます。
もしあなたが、「目が見えなくなったら、もう働けないのでは」と不安を感じているなら——。
もしあなたが、視覚障害のある家族や友人の「これから」を案じているなら——。
もしあなたが、「見えなくてもできる仕事」を、具体的に知りたいと思っているなら——。
この記事は、あなたのためのものです。
こんにちは。視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・中澤 隆(なかざわ りゅう)です。盲導犬シュクレと一緒に、IRONMAN(226km)のサブ11時間挑戦を続けながら、ここ3〜4年は年間50回前後で講演に登壇しています。
今日は、講演でいただく質問の中でも、特に切実なものにお答えします。「視覚障害のある人は、どんな仕事をしているんですか?」——。これは、見えにくくなっていく不安を抱えた方や、そのご家族からよく出る質問です。他の人の細かい事情を勝手に語ることはできません。でも、僕自身が歩いてきた道なら、自信を持ってお話しできます。今日は、僕の一次情報を軸に、「見えなくてもできる仕事は、思うよりずっと多い」という話を書きます。
まず、正直に書きます。
視覚を失っていく時期、僕自身が「もう、まともに働けないんじゃないか」と思っていました。
僕は27歳のとき、現場監督の仕事中に、天井の照明が虹色に見えて、緑内障と診断されました。治療を重ねても進行して、図面を見る仕事なのに、その図面の細かい字が見えなくなっていく。確認作業が1回から2回、3回と増えて、「早くしなきゃ」と思うほど手が止まる。そして31歳で視覚障害者になり、13年勤めた会社を、事実上クビになりました。
あの頃の僕に、今の僕の話をしても、きっと信じなかったと思います。「見えなくなったら終わりだ」と、本気で思い込んでいたから。でも、それは思い込みでした。今日は、その思い込みを、僕の経験でほどいていきます。
13年勤めた会社は、僕にとって、ただの職場ではありませんでした。18歳で就職して、先輩たちにかわいがってもらって、初めて「自分の居場所ができた」と思えた場所。そこを失ったとき、仕事だけでなく、自分の存在価値そのものを失ったような気がしました。「もう、社会の中に自分の役割はないのかもしれない」。夜になるのが怖くて、眠るのもつらかった時期です。
でも、結論から言えば、僕の役割は、なくなっていませんでした。形が変わっただけだったんです。見える前提で組み立てられていた仕事ができなくなっても、見えにくいことを前提にした仕事や、見えにくいからこそ届けられる仕事が、ちゃんとあった。それに気づくまでに、僕は少し時間がかかりました。だから、同じ不安の中にいる人に、その「気づき」を、少しでも早く届けたいんです。
会社を辞めて、お先が真っ暗だった僕に、相談していた方が、こう言ってくれました。「大学、行ってみたら?」
その一言で、僕は人生で初めて、大学受験をしました。進んだのは、鍼灸を学ぶ大学です。僕は学生時代、勉強がとても苦手でした。成績は「1が2つ」あるような子どもだった。そんな僕が、30代になって、人生初の大学生になったんです。
大学では、単位を1つでも落とすと留年してしまう緊張感の中、毎日必死で勉強しました。そして、国家資格に挑みました。
正直に書くと、鍼師と灸師の資格は、不合格でした。でも、あん摩マッサージ指圧師の資格には、合格できたんです。全部に受かったわけじゃない。でも、ひとつ受かった。それは僕にとって、「まだ自分は終わっていない」という、何よりの証明でした。落ちたものに目を向けるより、受かったひとつを、僕はずっと大事にしています。
僕が取得した「あん摩マッサージ指圧師」をはじめ、あん摩・マッサージ・指圧、そして鍼や灸といった分野は、視覚障害のある人が、昔から活躍してきた仕事です。
これらの仕事は、手の感覚をとても大切にします。指先で、体のこりや筋肉の状態を読み取っていく。目で見るより、手で感じる力が物を言う世界です。だからこそ、視覚障害のある人の繊細な感覚が、しっかりと生きる。
見えないことが不利になるどころか、手の感覚という強みが生きる仕事がある。これは、僕が大学で実感したことです。
僕は競技と講演の道を歩んでいるので、施術を本業にしているわけではありません。でも、あの資格を取る過程で学んだことは、「見え方が変わっても、活かせる力は必ずある」という確かな手応えになりました。やり方を変えれば、できる仕事はちゃんとある。それを、自分の体で知れたんです。
大学での日々は、決して楽ではありませんでした。勉強が苦手だった僕が、専門的な知識を一から学ぶ。単位を1つでも落とせば留年という緊張の中、毎日が必死でした。それでも、留年せずに卒業できた。あの経験は、「見えにくくても、努力すれば道は拓ける」という、僕にとっての小さな自信になりました。資格そのものより、「やればできた」という事実が、その後の挑戦をぜんぶ支えてくれている気がします。
そして、僕自身が今、支えられている働き方が、アスリート雇用です。
これは、競技を続けるアスリートを、会社が社員として迎えてくれる仕組みです。僕は、最初は5年契約の契約社員からスタートして、その後、評価していただいて無期契約の社員になりました。視覚障害があっても、トライアスリートとして挑み続けながら、会社の一員として働けている。
この職場で、僕は70歳になっても挑戦を続けている仲間に出会いました。年齢も、見え方も、人それぞれ。それでも、それぞれの形で働き、挑んでいる人たちがいる。「働き方は、ひとつじゃない」と、肌で感じられる場所でした。
一度は「もう社会に自分の役割はない」と思った僕にとって、こうした働き方に出会えたことは、本当に大きな支えになりました。見えにくくなっても、社会の中にちゃんと居場所がある。誰かに必要とされ、役割を持って働ける。それは、お給料という以上に、「自分はまだ社会の一員でいられる」という、心の安心をくれるものでした。仕事は、お金を得る手段であると同時に、自分の居場所を取り戻すことでもある。僕は、そう実感しています。
視覚障害のある人が働く場所は、あん摩・鍼灸やアスリート雇用だけではありません。一般の企業で働いている人もいます。
技術はどんどん進んでいます。パソコンの画面を読み上げてくれるソフトや、文字を大きく表示する設定、音声で操作できる道具。そういう工夫を組み合わせれば、見えにくくてもできる仕事は、確実に広がっています。僕自身、視覚を失っていく時期に、内勤として見積もりや図面の仕事を続けた経験があります。やり方を工夫すれば、続けられる仕事はあるんです。
そして、僕がもうひとつの仕事にしているのが、講演です。年間50回前後、いろいろな場所で、自分の人生の話をする。視覚障害があるからこそ伝えられることが、仕事になる。これも、見えなくてもできる——いや、見えにくいからこそできる仕事のひとつです。
あん摩・マッサージ・指圧、鍼、灸。アスリート雇用。一般企業での仕事。講演。少し見渡すだけでも、これだけの道があります。大事なのは、「見えないからできない」と最初から決めつけないこと。「どうやったらできるか」を考えれば、道は思っているよりずっと広く、たくさん枝分かれしています。
ここで、ひとつ大事なことをお伝えしておきます。「視覚障害」とひとくちに言っても、見え方は、人によって本当にさまざまだということです。
僕は視覚障害B2というクラスです。まったく見えないわけではないけれど、細かいものを見るのは難しい。一方で、まったく光を感じない人もいれば、視野の一部だけが見える人もいる。見え方が違えば、得意なことも、合う働き方も、当然変わってきます。だから、「視覚障害者の仕事はこれ」と、ひとつに決めつけることはできないんです。
僕自身、視覚を失っていく時期に、図面が見えなくなって内勤に回り、見積もりや図面の仕事を、やり方を工夫しながら続けた経験があります。あの頃は本当に苦しかった。でも今振り返ると、あれも「見え方に合わせて、仕事の形を変えた」一例でした。できることと、難しいことを切り分けて、できる形を探す。その積み重ねが、働き続けることに繋がっていきます。
大切なのは、自分の見え方や得意を、よく知ること。そして、それに合う形を、焦らず探すことです。誰かに合った仕事が、自分に合うとは限らない。逆に、自分に合う形は、必ずどこかにあります。職場のアスリート雇用の仲間に70歳の方がいたように、年齢も見え方も人それぞれで、それぞれの挑戦の形がある。比べる必要はありません。自分の形を、自分のペースで見つけていけばいいんです。
だから僕は、他の誰かの細かい事情を、勝手に「こうだ」と語ることはしません。でも、こうとは言えます。見え方が人それぞれである以上、働き方の選択肢も、それだけ豊かにあるということ。これは、不安ではなく、希望の話だと思っています。
ここまで書いてきて、改めて思います。すべてに共通しているのは、僕の合言葉の「カギは工夫」だということです。
図面が見えなくなったとき、僕は内勤に回って、確認のやり方を変えました。25メートルも泳げなかったとき、ガイドと伴走ロープで繋がるという形を選びました。仕事も、まったく同じです。見え方が変わったら、できる形に、やり方を変える。それだけのことなんです。
「工夫」と聞くと、何か特別な発想がいるように感じるかもしれません。でも、僕の言う工夫は、もっと地味で、もっと現実的なものです。一度でうまくいかないなら、二度三度と確認する。一人で難しいなら、誰かと組む。今までのやり方が通用しないなら、新しいやり方を一から探す。どれも、ちょっとした手間と、あきらめない気持ちでできることばかりです。仕事選びも、結局はこの繰り返し。「この形がダメなら、次はこの形」と、試し続けるうちに、自分に合った働き方が、少しずつ見えてきます。最初から正解を当てる必要はありません。工夫しながら、近づいていけばいいんです。そうやって道を作ってきた人間が、現にここにいます。
できる/できないじゃなく、どうやったらできるか。仕事選びも、この一点に尽きます。
もちろん、簡単な道ばかりではありません。僕も、鍼師と灸師の資格には落ちました。思い通りにいかないことは、たくさんあります。でも、ひとつ受かれば前に進めるし、ひとつの形がダメなら、別の形を探せばいい。工夫の数だけ、道は増えていきます。
もしあなたが、「見えなくなったら、もう働けない」と不安を抱えているなら——。
どうか、覚えておいてほしいんです。それは、かつての僕がそうだったように、たぶん思い込みです。
あん摩・鍼灸の道。アスリート雇用。一般企業。講演。見えなくてもできる仕事は、思うよりずっと多い。大切なのは、最初から扉を閉じないこと。やり方を、できる形に変えていくこと。
見えなくてもできる仕事は、思うより多い。ピンチはチャンス、カギは工夫。僕がそれを、自分の歩いた道で証明してきました。
僕は、現場監督から視覚障害者になり、大学に入り直し、資格を取り、今は働きながら挑み続けています。道は、一本道じゃありません。何度でも、作り直せる。あなたの「これから」が、思っているよりずっと広いことを、僕は自分の経験から、確信しています。
もし今、あなたが、あるいはあなたの大切な人が、見え方の変化に不安を感じているなら。どうか、ひとりで抱え込まないでほしいんです。働き方を探すことも、誰かに相談することも、新しいことを学び直すことも、ぜんぶ立派な「1ミリの行動」です。その小さな一歩が、思いがけない場所へ連れて行ってくれる。僕がそうだったように、あなたにも、きっとその道はあります。焦らず、自分のペースで。あなたの一歩を、僕は心から応援しています。
「視覚障害B2の生活」「IRONMAN サブ11挑戦」「1ミリの行動」「気合いより1ミリ」をテーマに、講演を続けています。学校・企業・自治体問わず、対応可能です。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
📧 つなひろワールドへお問い合わせ僕が視覚障害になってから今日までの道のりを、16分の動画にまとめています。文章より、声のほうが届く日もあると思うから。よかったら、そばに置いておいてください。
中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
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RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
盲導犬シュクレと共に、1ミリの行動を続ける人