誰もいない静かな部屋で、画面の光だけが顔を照らしている。検索窓に打ち込んだ病名の先に、「一度失われた視野は、二度と戻らない」という一行がありました。背筋がすっと冷たくなった、あの夜の話です。
もしあなたが、今、「自分の体に、何か起きているかもしれない」という入口に立っているなら——。
もしあなたが、検索窓に病名を打ち込もうとして、指が止まっているなら——。
もしあなたが、知ってしまうのが怖くて、でも知らないのも怖いという夜を過ごしているなら——。
この記事は、あなたのためのものです。
こんにちは。視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・中澤 隆(なかざわ りゅう)です。盲導犬シュクレと一緒に、IRONMAN(226km)のサブ11時間挑戦を続けながら、年に50回ほど、全国でお話をさせてもらっています。
今日お伝えしたいのは、僕が27歳で緑内障と診断された、その「日」の話ではありません。診断の日より、ずっとあとに来た、ひとりでパソコンの画面の前に座った「夜」の話です。あの夜のことを、46歳になった今、一次情報でお届けします。
27歳の僕は、電気工事の現場監督をしていました。図面を読んで、職人さんに段取りを伝えて、現場を回す。体を使って、頭も使って、毎日があっという間に過ぎていく。そんな仕事でした。
異変は、ある日ふっと現れました。天井の照明を見上げたとき、その周りが、虹色に滲んで見えたんです。最初は「疲れてるのかな」くらいに思っていました。でも、目の奥が痛む。視界が霞む。頭も痛い。さすがにおかしいと思って、病院に行きました。
正直、病院に行くこと自体、少しおっくうでした。仕事は忙しかったし、たぶん大したことないだろうと、心のどこかで思っていたからです。現場の人間というのは、多少の不調なら、気合いでなんとかしてしまうところがあります。だから、わざわざ時間を作って病院に行く僕は、自分でも少し大げさかな、くらいに感じていました。今思えば、その「大したことないだろう」という油断こそが、僕の出発点だったんです。
そこで告げられた病名が、緑内障でした。
正直に書きます。そのときの僕の感想は、「へ〜、そんな病気があるんだ〜」でした。それだけです。深刻さなんて、まるで分かっていませんでした。緑内障という言葉も初めて聞いたし、目薬をさせばそのうち治るくらいに思っていた。僕の中で、それはまだ「ちょっと面倒な、目の病気」でしかなかったんです。
診断の帰り道のことを、よく覚えています。空が普通に明るくて、いつもの道で、僕はいつも通りでした。明日の現場の段取りを頭の中で組み立てていたくらいです。病気のことより、仕事のことで頭がいっぱいでした。
今振り返ると、不思議なものです。人生を変えるくらい大きな出来事が、その日の僕の中では、ほんの小さな点でしかなかった。医者は確かに「緑内障です」と言った。でも、その言葉が持っている本当の重さは、僕にはまだ一ミリも届いていなかったんです。
たぶん、人は、本当に大事なことほど、すぐには受け止められないようにできているのかもしれません。心が、いきなり全部を受け取らないように、ゆっくり、ゆっくり、しか分からせてくれない。あの日の僕の軽さは、心が僕を守ってくれていたのかな、とも思います。
「へ〜」で受け流せたのは、僕が強かったからじゃありません。ただ、心がまだ準備できていなかったからです。だから、もしあなたが何かを告げられて、思ったほど動揺していない自分に戸惑っていても、大丈夫。実感は、あとから静かにやってきます。
実感がやってきたのは、診断からしばらく経った、ある夜のことでした。
仕事が終わって、家に帰って、ふと「緑内障って、結局どういう病気なんだろう」と思ったんです。軽い気持ちでした。スマホで、いや当時のことですから、パソコンの画面を開いて、検索窓に病名を打ち込みました。本当に、ただの好奇心みたいなものだったと思います。
部屋は静かでした。画面の光だけが、ぼんやりと顔を照らしている。職場の喧騒も、現場の音も、そこにはありませんでした。誰もいない、静かな夜の部屋で、僕は一人で、画面に並んだ文字を、一つずつ読んでいきました。
最初は、ただ読んでいるだけでした。緑内障とは、こういう病気で、こういう原因があって——と、まるで他人の症状を眺めるみたいに、淡々と。そのときの僕は、まだ知識を「集めている」だけのつもりでした。自分の身に起きていることだという実感は、文字の表面を滑っていくばかりで、なかなか心の中まで入ってこなかったんです。
そして、その文字たちが、診断の日には届かなかったことを、まっすぐに僕の心に運んできたんです。
画面には、こう書いてありました。緑内障は、視野が少しずつ狭くなっていく病気だ。進行を遅らせることはできる。でも——一度失われた視野は、二度と戻らない。
その一行を読んだ瞬間のことを、僕は今でもはっきり思い出せます。
遅らせられる。その言葉に、最初は少しほっとしました。でも、すぐ隣に書かれていた「戻らない」という言葉が、じわじわと意味を持ち始めたんです。遅らせられるけれど、止められるわけじゃない。失った分は、取り返せない。つまり、僕の視界は、これから少しずつ、確実に、減っていく。そして減った分は、もう永遠に返ってこない。
初めて、背筋がすっと冷たくなりました。「へ〜」なんて、もう言えませんでした。ヤバイ。心の底から、そう思いました。診断から何日も経って、ようやく、僕は自分の身に起きていることの本当の意味を理解したんです。
僕は現場監督です。図面を読み、細かい数字を確認し、目で見て段取りを組む。それが僕の仕事の、いちばん大事な部分でした。その「見る」という力が、これから少しずつ削られていく。しかも、削られた分は二度と戻らない。画面の文字を読みながら、僕の頭の中では、自分の仕事の風景が、少しずつ崩れていくような感覚がありました。これは、ただの体の不調じゃない。僕の生き方そのものに関わることなんだと、その夜、ようやく腹の底で分かったんです。
医者が告げたのは「病名」でした。でも、その病名が僕の人生にとって何を意味するのかは、誰も教えてくれませんでした。僕は、ひとりで、画面の前で、それを知ったんです。
不思議なことに、僕にとって一番怖かったのは、医者から病名を告げられた瞬間ではありませんでした。白衣の人が、診察室で、僕に向かって言葉を発したあの場面ではない。本当に怖かったのは、誰もいない部屋で、自分の意志で検索して、自分の目で文字を追った、あの夜だったんです。
なぜだろう、と何度も考えました。たぶん、人から言われたことには、まだどこか「人ごと」の余白があるんだと思います。医者の言葉は、僕の外側から来る。だから、受け止めるか受け流すか、僕の側に少しだけ余裕がある。
でも、自分で調べて知った事実には、その余白がありません。自分の意志で取りに行って、自分の頭で理解してしまった事実は、もう「人ごと」にできない。完全に、自分のものになってしまう。逃げ場がないんです。
それに、診察室には、お医者さんがいました。看護師さんもいた。誰かがそばにいる場所で聞いた言葉と、誰もいない部屋で一人で受け止めた言葉とでは、心に届く深さがまるで違います。あの夜、僕の隣には、誰もいませんでした。慰めてくれる人も、「大丈夫だよ」と言ってくれる人もいない。画面の冷たい光と、静けさだけ。だからこそ、その事実は、何にも遮られずに、まっすぐ僕の心の奥まで届いてしまったんだと思います。
情報を知るというのは、そういうことなんだと、あの夜、初めて分かりました。知ってしまったら、知らなかった頃には戻れない。だから怖い。でも、それは決して悪いことだけではありませんでした。
あの夜、僕が怖くなったのは、ようやく現実とまっすぐ向き合い始めたからでした。「へ〜」で済ませていた頃の僕は、何とも向き合っていなかった。怖いと感じるのは、逃げずに正面を見た人だけに訪れる感情です。怖さは、弱さではありません。
あの夜のあと、僕の人生はすぐには変わりませんでした。怖いと知ったからといって、翌日から世界が変わるわけじゃない。僕は相変わらず現場に出て、図面を読んで、仕事を続けました。目薬をさし、飲み薬を飲み、何度も手術も受けました。「これできっと良くなるはず」と、信じたかった。それでも、進行はゆっくり続いていきました。
治療を続けている間、僕はずっと、二つの気持ちの間で揺れていました。「きっと良くなる」と信じたい気持ちと、あの夜に知ってしまった「戻らない」という事実。希望と現実が、心の中で同居していました。手術台に乗るたびに、これで少しでも食い止められますように、と願う。でも、心の奥では、完全には元に戻らないことも、もう分かっている。その両方を抱えながら過ごす日々は、決して楽ではありませんでした。それでも、信じることをやめなかったのは、信じて手を尽くした時間は、たとえ結果が同じでも、決して無駄にはならないと思えたからです。
でも、あの夜に本当の意味を知っていたことは、決して無駄ではなかったと、今は思います。知らないまま、ある日いきなり視界が大きく欠けて慌てるより、僕は「いつかこうなる」と知った上で、毎日を過ごすことができた。準備の時間を、もらえたんです。
僕がいつも大事にしている合言葉に、「ピンチはチャンス、カギは工夫」というものがあります。あの夜、僕が手にしたのは、間違いなくピンチでした。でも同時に、それは「これから何を工夫すればいいか」を考え始めるための、最初の材料でもあったんです。知ることは怖い。でも、知ることは、工夫の始まりでもある。逃げ道ではなく、入口でした。
僕は今、こうしてパラトライアスリートとして、IRONMANという226kmの長い旅に挑み続けています。盲導犬シュクレと歩き、たくさんの人に支えられながら、年に50回ほど、自分の言葉を届けています。あの静かな夜、画面の前で固まっていた27歳の僕には、今のこの景色は、まったく想像できませんでした。
もし今、あなたが、画面の前で何かを調べて、その文字に固まっているなら。怖くて、息が浅くなっているなら。僕は、あの夜の自分の隣に座るような気持ちで、これを書いています。
怖いですよね。知ってしまった事実は、もう手放せない。元には戻れない。その重さは、痛いほど分かります。
でも、これだけは伝えたいんです。知ってしまったあなたは、もう、向き合い始めています。逃げていない。それだけで、あなたは前に進む準備ができている。あとは、その怖さを抱えたまま、一ミリだけ動けばいい。今日できる、ほんの小さなこと。それを一つ。気合いはいりません。必要なのは、ほんの少しの工夫と、一ミリの行動だけです。
それから、もう一つ。知ってしまったことを、一人だけで抱え込まないでほしいんです。あの夜の僕は、たった一人で、画面の前で、その事実を受け止めました。でも、本当はそうじゃなくてよかったんだと、今は思います。怖いことを誰かに話すだけで、その重さは、ほんの少し軽くなる。僕がこうして競技を続けてこられたのも、ガイドさんをはじめ、たくさんの人に支えられてきたからです。一人で知って、一人で抱えるのではなく、繋がりの中で分かち合っていけたら、その怖さは、きっと少しずつ形を変えていきます。
僕は、弱さと行動は両立すると信じています。怖くても、不安でも、人は一ミリだけ動ける。そして、その一ミリを続けた人だけが、画面の前で固まっていた自分には想像もできなかった景色に、いつかたどり着きます。あの夜の僕が、今ここにいるように。
知ることは、怖い。でも、知ったあなたは、もう向き合っている。怖さを抱えたまま、一ミリ動こう。その先に、今は想像もできない景色が、きっと待っています。
あなたの今日が、ほんの少しだけ軽くなりますように。最後まで読んでくれて、ありがとうございました。
「視覚障害B2の生活」「IRONMAN サブ11挑戦」「1ミリの行動」「気合いより1ミリ」をテーマに、講演を続けています。学校・企業・自治体問わず、対応可能です。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
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RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
盲導犬シュクレと共に、1ミリの行動を続ける人