「あれ、補給ジェルどこにしまったっけ」「ゼッケンって何時までに着けるんだっけ」——226kmのスタート地点で、心臓がドキドキしている朝に、それを考え始めたら、もうパニックです。だから僕は、当日の朝に「考えること」を、一つも残しません。
もしあなたが、大きな本番の朝、緊張で頭がいっぱいになってしまうタイプなら——。
もしあなたが、「準備はいつやればいいんだろう」と、いつも前日にバタバタしてしまうなら——。
もしあなたが、見えない世界で226kmのレースに挑む人間が、当日の朝に何を考えているのか気になるなら——。
この記事は、あなたのためのものです。
こんにちは。視覚障害B2クラスのパラトライアスリート・中澤 隆(なかざわ りゅう)です。盲導犬シュクレと一緒に暮らしながら、IRONMAN(226km)のサブ11時間挑戦を続けています。年間50回前後、学校や企業で講演にも立たせてもらっています。
今日は、レース当日の朝、僕が一番最初にすることについてお話しします。結論から言うと、当日の朝に「考えること」を、僕はできるだけ残しません。大事なことは前日までに全部決めておいて、朝はただ「動くだけ」にしておく。気合いより段取り。これが、見えない僕が長いレースのスタートラインに落ち着いて立つための、たった一つのコツです。
レースの朝は、誰でも緊張します。心臓がドキドキして、頭の中がふわふわして、いつもなら当たり前にできることが、急にできなくなる。僕も、何度も経験してきました。
そんな状態のときに、「あれ、補給ジェルどこにしまったっけ」「ゼッケンって何時までに着けるんだっけ」なんて考え始めたら、もうパニックです。焦れば焦るほど、手が止まる。これは、目が見えにくくなっていく時期に、図面を見る仕事で僕が嫌というほど味わった感覚です。昨日できたことが、今日できない。早くしなきゃと思うほど、確認が二回、三回と増えていく。「早くしなきゃ」と思うほど、手が止まる。あの焦りを、レースの朝にもう一度味わいたくはありません。
だから僕は決めました。当日の朝に、新しく考えることを一つも残さない。判断は全部、頭が冷静な前日までに終わらせておく。朝の自分は、決めた手順をなぞるだけの自分にしておく。考える自分と、動く自分を、別の日に分けてあげるんです。
緊張している自分に、難しい判断をさせない。これは、自分への優しさでもあります。前日の落ち着いた僕が、緊張している朝の僕のために、道をぜんぶ整えておく。「あとはこの通りに動けばいいよ」と、前の日の自分が肩を叩いてくれる。そんな感覚で、僕はスタートの朝を迎えます。
当日の朝の僕は、決める人じゃない。前日の僕が決めたことを、ただ実行する人。
「本番は気合いだ」とよく言われます。でも、僕はそう思いません。気合いは大事です。でも、気合いだけで動こうとすると、見えない僕は必ずどこかでつまずきます。
僕の合言葉は「気合いより段取り」です。気合いは、スタートの号砲が鳴ってから、苦しい場面で使うもの。スタートまでの準備に気合いを持ち込むと、力みすぎて、肝心のレースで使う分が残らない。
朝、気持ちが昂っていても、やることが決まっていれば体は勝手に動きます。「次はこれ、その次はこれ」と、決めた順番をたどっていくうちに、いつの間にか準備が終わっている。段取りは、緊張した心の代わりに、体を運んでくれるレールのようなものです。
気合いは、燃料です。使えば減ります。だから、本当に必要な場面まで、大事に取っておきたい。準備の段階で気合いを燃やしてしまうと、いざ苦しい場面が来たときに、もう燃やすものが残っていない。準備は段取りで淡々と。気合いは、レース中の踏ん張りどころのために。僕は、自分の中の気合いを、そんなふうに配分しています。
心が落ち着かない朝でも、決めた手順という「レール」があれば、体はその上を進めます。落ち着いてから動くのではなく、動いているうちに落ち着いてくる。順番を決めておくとは、そういうことです。
見えない僕にとって、一番こわいのは「物が見つからない」ことです。晴れている人なら一瞬で見つかるものが、僕には探すだけで何分もかかる。本番の朝にそれをやっていたら、心が一気に削られます。
だから道具は、前日までに全部、決まった場所にしまっておきます。どのバッグの、どのポケットに、何が入っているか。それを手の感覚で覚えられる形にしておく。触ればわかる。それが、見えない僕の「見えている」状態です。
細かいやり方は人それぞれでいいと思います。大事なのは考え方のほうです。朝の自分が、手を伸ばせば必ずそこにある。その状態を、前日の自分が作っておく。物を探す時間をゼロに近づけるほど、心に余裕が生まれます。
この「定位置」という考え方は、レースのためだけのものではありません。見えない僕の毎日の暮らしそのものが、定位置で成り立っています。家の中でも、物の場所を決めて、いつもそこに戻す。探し物の時間をゼロに近づけることが、見えない世界で穏やかに生きるコツです。その暮らしの工夫が、そのままレースの朝の準備につながっている。特別なことをしているのではなく、いつもの工夫を本番に持ち込んでいるだけなんです。
長いレースで体を止めないために、補給はとても大切です。そして補給は、お腹が空いてからでは遅い。空腹を感じた時点で、もうエネルギー切れの一歩手前なんです。
だから僕は、お腹ではなく時計で食べると決めています。決まった時間が来たら、お腹の感覚に関係なく口に入れる。その「時計で食べる」を本番でスムーズにやるために、補給は前日のうちに、取り出す順番まで決めて並べておきます。
朝に「次は何を食べよう」と考えるのではなく、「決めた時間が来たら、決めた順番で取り出す」だけにしておく。ここでも、当日の朝に判断を残さないという考え方は同じです。
補給も、朝に決めるものじゃない。前日に並べたものを、時計に言われて口に入れるだけ。
僕のレースは、一人では成り立ちません。スイムとランは伴走ロープでガイドとつながり、バイクはタンデムで二人乗り。支えてくれる仲間がいて、はじめてスタートラインに立てるのが、僕のレースです。
だから当日の朝、僕がやることの中でも特に大事なのが、ガイドとの確認です。今日のコースで気をつけるところ、補給をどのタイミングで声かけしてもらうか、ロープを引く合図、止まるときの合図。言葉にして、二人ですり合わせておく。
見えない僕にとって、ガイドの声は「もう一つの目」です。その目とピントを合わせておくのが、朝の確認の意味です。これも、レースが始まってから「どうする?」と相談していたら間に合わない。落ち着いて話せる朝のうちに、合図をそろえておきます。
かつての僕は、人に助けてもらうことを、情けないと感じていました。視覚障害者になりたての頃は、「助けてもらう側」になるのが悔しくてたまらなかった。でも、トライアスロンを続けるうちに気づいたんです。ガイドは、僕を助ける人ではなく、一緒に走る対等なチームなんだと。だから朝の確認も、お願いというより、二人の作戦会議です。どちらかが上でも下でもなく、同じゴールを見て、合図をそろえる。その時間が、僕は好きです。
同じ合図を、同じ意味で共有できている。それだけで、レース中の不安はぐっと減ります。繋がる輪の中で挑むからこそ、朝の数分の確認が、一日を支えてくれます。
ここまで読んで、気づいてもらえたかもしれません。僕が当日の朝にやっていることは、ほとんど「前日に決めたことを、なぞる」だけなんです。
道具は定位置にある。補給は順番に並んでいる。ガイドとの合図はそろっている。だから朝の僕は、新しく何も決めなくていい。緊張で頭がふわふわしていても、体は決めたレールの上を進んでいける。
「動くだけ」というと、なんだか味気なく聞こえるかもしれません。でも、僕にとっては、これが一番ありがたい状態なんです。考えなくていい、迷わなくていい、探さなくていい。その分、心のエネルギーを、これから始まる長い一日のために、まるごと取っておける。朝にエネルギーを使い切らない。本番のために残しておく。「動くだけ」の朝は、そのための、僕なりの知恵なんです。
「当日の朝に一番最初にすること」と聞かれたら、僕の本当の答えはこうです。当日の朝に、特別なことを何もしなくていいように、前日までを生きる。朝を「動くだけ」にできた分だけ、僕は落ち着いてスタートラインに立てます。
もちろん、それでも緊張はします。心臓はドキドキするし、不安だってある。でも、それでいいんです。緊張を消すことが目的ではありません。緊張したままでも、ちゃんと動けることが目的です。考えなくても体が動く。探さなくても物がそこにある。迷わなくてもガイドと合図が通じる。その土台があるから、緊張という波の上でも、僕は流されずに立っていられます。
本番の出来は、本番の朝じゃなく、前日までの段取りで決まっている。
これは、レースだけの話ではありません。あなたにも、大事な「本番の朝」があるはずです。試験の日、面接の日、大きなプレゼンの日、人生を左右する一日。
その朝に、持ち物を探したり、段取りを考えたりしていませんか。もしそうなら、ほんの少しでいい。判断を前日に引っ越してみてください。着る服を出しておく。持ち物を玄関にそろえておく。やる順番を紙に書いておく。朝の自分を、決める人ではなく、動くだけの人にしてあげる。
緊張している朝の自分は、いつもの自分より、ずっと不器用です。その不器用な自分でも迷わないように、前日の自分が道を整えておく。準備とは、未来の自分への手紙のようなもの。「大丈夫、ここまで用意したから、あとは動くだけだよ」と、前の日の自分が、朝の自分の背中をそっと押してくれます。
緊張するのは、本気で挑んでいる証拠です。だから緊張は消さなくていい。ただ、緊張した自分でも進めるレールを、前の日のうちに敷いておく。それだけで、あなたの本番の朝は、ずっと優しくなります。
そしてもう一つ。準備の段取りには、終わりの時間も決めておくのがおすすめです。「ここまで準備したら、もう考えない」と線を引く。いつまでも「あれもこれも」と心配し続けると、かえって不安が大きくなります。前日の夜、決めた準備が終わったら、あとは体を休めることに集中する。準備を終わらせる勇気も、段取りのうちです。やるだけやったら、あとは信じて眠る。持久系の競技では、休むこともまた、立派な準備なんです。
振り返ってみると、僕がこの「前日までに段取りを終わらせる」やり方にたどり着いたのは、見えなくなっていく中で、たくさん失敗してきたからです。焦って物を探して、見つからなくて、もっと焦る。その繰り返しの中で、「探さなくていい状態を、先に作っておけばいい」と気づいた。弱さやハンデがあったからこそ、段取りの大切さを、人より深く知ることができた。できないことが、工夫を教えてくれた。これも、僕にとっての一つの財産です。
ピンチはチャンス。チャンスに変えるカギは、気合いじゃなくて工夫です。そして本番の朝の工夫とは、前日までに段取りを終わらせて、朝を「動くだけ」にしておくこと。あなたの大事な一日が、落ち着いた朝から始まりますように。今日も、一緒に1ミリ進みましょう。
「視覚障害B2の生活」「IRONMAN サブ11挑戦」「1ミリの行動」「気合いより1ミリ」をテーマに、講演を続けています。学校・企業・自治体問わず、対応可能です。盲導犬シュクレも一緒に伺うことができます。
📧 つなひろワールドへお問い合わせ中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
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RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
盲導犬シュクレと共に、1ミリの行動を続ける人