震える指で、「視覚障害のある僕でも、受け入れてもらえますか」と書いて送った。その問い合わせのボタンひとつが、思いもよらない出会いを連れてきました。
もしあなたが、いま、やってみたいことがあるのに「自分なんかが踏み込んでいいのだろうか」とためらっているなら。
もしあなたが、たった一本のメールを、たった一本の電話を、送る勇気が出せずに何日も立ち止まっているなら。
もしあなたが、今日撒いた小さな種が、いつか何かに繋がるなんて、とても信じられずにいるなら。
——この記事は、そんなあなたのためのものです。
こんにちは。視覚障害B2のパラトライアスリートで、講演家の中澤隆(なかざわ りゅう)と申します。僕は31歳のときに、目の病気でほとんど見えなくなりました。それでも今、盲導犬シュクレと一緒に世界を転戦し、IRONMAN(アイアンマン)という長い長いレースに挑み続け、全国の学校や企業でお話をさせてもらっています。見えなくなった僕がここまで来られたのは、決して僕の力だけではありません。途中で出会ってくれた、たくさんの人のおかげです。
今日は、その「途中で出会ってくれた人」の中でも、僕の競技人生の入口に立っていてくれた、ある一人のコーチの話を書かせてください。この話は、僕自身がいまだに「世の中って、こんなことがあるのか」と鳥肌が立つ、運命の伏線回収のような出来事です。たった一本の問い合わせが、どれほど大きな出会いを連れてきてくれたのか。そして、点と点は、ずっと後になってから繋がるのだということを、あなたに手紙のように伝えたいのです。
まず、あなたに正直に打ち明けたいことがあります。僕は、決して最初から勇敢な人間ではありませんでした。
31歳で目が見えなくなったとき、僕の世界は、それまでとは何もかもが変わってしまいました。今まで当たり前にできていたことが、ひとつ、またひとつとできなくなっていく。新しいことに踏み出すどころか、家から一歩外に出るのにも、ずいぶんと心の準備が必要な毎日でした。「見えない自分に、いったい何ができるんだろう」。そんな問いが、ずっと胸の奥に居座っていたのを覚えています。
でも、今になって振り返ると、僕の人生が大きく動き出した瞬間は、いつも「ほんの小さな一歩」から始まっていました。大きな決断ではないのです。劇的な覚悟でもありません。たった一本の問い合わせ。たった一回の「やってみたいです」という声。その1ミリの行動が、僕の運命を静かに、しかし確実に動かしてくれました。
僕はいつも、自分のことを「1ミリの行動の人」だと思っています。気合いや根性で大きく飛ぶのではなく、できる範囲で、ほんの1ミリだけ前に出てみる。その1ミリの積み重ねだけが、僕のような人間を遠くまで運んでくれるのだと、身をもって知っているからです。今日の話は、その「1ミリ」が運命を連れてきてくれた、僕にとって一番大切なエピソードのひとつです。
僕がトライアスロンという競技に出会ったきっかけは、一本のテレビ番組でした。
目が見えなくなって間もない、心がいちばん沈んでいた頃のことです。何気なくつけていたテレビに、ある女の子の姿が映りました。その子は、全盲でした。僕よりもずっと見えない。光すら、ほとんど感じられない。そんな彼女が、伴走者と一緒に、海を泳ぎ、自転車に乗り、走っていたのです。トライアスロンという競技に、まっすぐに挑んでいる姿でした。
その映像を見たとき、僕は気づいたら泣いていました。「僕より見えない子が、こんなにも前を向いて挑んでいる。だったら、僕にもできるかもしれない」。あの涙の意味を、今でもうまく言葉にできません。悔しさだったのか、希望だったのか、あるいはその両方だったのか。ただひとつ確かなのは、画面の向こうにいたその子の姿が、止まっていた僕の心に、もう一度火を灯してくれたということです。
このきっかけの話は、別の記事でも書かせてもらいました。だから今日は、ここから先——「じゃあ、その火を、僕はどう行動に移したのか」という部分を、あなたに伝えたいのです。なぜなら、本当の運命は、この後に待っていたからです。
テレビを見て「僕にもできるかもしれない」と思ったところで、現実はそう簡単ではありません。僕は目が見えません。一人で海を泳ぐことも、公道で自転車をこぐことも、当然できません。トライアスロンをやりたい——その気持ちだけが先にあって、どうやって始めればいいのか、まったく分からなかったのです。
それでも、僕は調べました。見えない僕にとって、情報を集めるのは、簡単なことではありません。それでも、できる工夫を重ねて、あるトライアスロン倶楽部にたどり着きました。都内の、ちゃんとしたクラブです。練習会もあって、コーチもいる。「ここなら」と思いました。
でも、ここで僕の足は、ぴたりと止まりました。問い合わせのボタンを押すだけ。たったそれだけのことが、どうしてもできないのです。頭の中で、ぐるぐると言葉が回りました。「視覚障害のある僕なんかが、入っていいのだろうか」「迷惑をかけてしまうんじゃないか」「断られたら、立ち直れないかもしれない」。一歩を踏み出す前の、あの胸がぎゅっと締めつけられる感覚を、きっとあなたも知っているはずです。
それでも、僕は震える指で、問い合わせの言葉を書きました。「視覚障害のある僕でも、受け入れてもらえますか」。そう正直に書いて、送ったのです。今思えば、これが僕の競技人生でいちばん大きな1ミリの行動でした。上手な言葉でなくていい。完璧な準備でなくていい。ただ、いまの自分を、まっすぐに伝える。それだけのことが、運命の扉を叩いていたのだと、後で知ることになります。
「大きく飛ぼうとしなくていい。怖いなら、怖いままでいい。ただ、できる範囲でほんの1ミリだけ、前に出てみる。問い合わせのボタンを押す。『やってみたい』と口にする。その小さな行動だけが、見えない自分を遠くへ運んでくれる」
送った返事は、拍子抜けするほど、あたたかいものでした。
「大丈夫ですよ」。
たったその一言です。あれほど悩んで、あれほど怖がっていたのに、返ってきたのは「大丈夫ですよ」という、まっすぐな受け入れの言葉でした。僕は、入会することができました。見えない僕に、世界へのドアが、静かに開いた瞬間でした。
そして——ここからが、この物語の核心です。
その倶楽部で、僕の指導をしてくれることになったのが、原田コーチでした。原田コーチと練習を重ねるうちに、僕は信じられない事実を知ることになります。なんと原田コーチは、あのテレビで見た全盲の女の子の、コーチだったのです。
分かるでしょうか。僕がトライアスロンを始める原点になった、あの画面の向こうの女の子。彼女を導いていたコーチが、僕が勇気を振り絞って送った、たった一本の問い合わせの先で、僕を待っていてくれた。あのとき僕の心に火を灯してくれた人が、今度は、僕自身の手を引いてくれることになったのです。
この事実を知ったとき、僕は心から「運命だ」と思いました。世界は、こんなにも遠回りをしながら、ちゃんと点と点を繋いでくれるのか、と。あのテレビを見て泣いた夜と、震える指で問い合わせを送った日と、原田コーチと出会った日。バラバラだったはずの点が、一本の線で、すうっと繋がったのです。
テレビで見た、あの子のコーチが、僕の最初のコーチになった。運命は、勇気を出した人にだけ、伏線を回収させてくれる。
原田コーチとの日々は、そこから本当に濃いものになりました。
僕たちは、世界を転戦しました。アジア選手権で2連覇させてもらった時期も、世界ランキングが最高で6位まで上がった時期も、いつもそばに原田コーチがいてくれました。見えない僕にとって、ガイド——伴走してくれる人の存在は、競技そのものと言っていいほど大きなものです。スイムでは僕とロープで繋がり、バイクではタンデム(二人乗りの自転車)の前で漕ぎ、ランでは声をかけながら一緒に走ってくれる。僕の目になり、僕の安全を守り、僕と一緒に挑み続けてくれる。それが、ガイドという存在です。
そして、僕が初めて表彰台に上がれたとき。あのときのガイドも、原田コーチでした。一緒に表彰台に上がれて、最高の気分でした。さらに、その晴れ舞台には、当時の僕の相棒だった一頭目の盲導犬・デネブも一緒に乗ってくれました。原田コーチと、デネブと、僕。支えてくれる人と、支えてくれる相棒と、その真ん中に僕がいる。あの光景は、僕だけの力でたどり着いた場所では、決してありません。繋がりの輪の中で、みんなで立たせてもらった場所でした。
世界の舞台は、もちろん厳しいものです。言葉も通じない国で、コースの様子も見えない中、レースに挑む。怖くなかったと言えば、嘘になります。でも、隣に原田コーチがいてくれるというだけで、僕は前に進めました。ピンチは、いつだってチャンスでした。見えないからこそ、人に頼る。頼るからこそ、繋がりが生まれる。その繋がりが、僕を世界の舞台まで連れていってくれたのです。
「見えないことは、たしかにハンディだ。でも、見えないからこそ、僕は人と繋がることを覚えた。一人でできないなら、誰かと一緒にやればいい。助けてもらうのは、弱さじゃない。むしろ、繋がりの輪を広げる、いちばん強い工夫なんだ」
僕がこの話を、どうしてもあなたに伝えたかった理由があります。
それは、「点と点は、後になってから繋がる」ということです。
テレビであの子を見た夜、僕は、そのコーチに自分が指導してもらう未来なんて、想像もしていませんでした。震える指で問い合わせを送ったとき、僕は、その先に世界の舞台が待っているなんて、夢にも思っていませんでした。一つひとつの点は、その瞬間には、何の意味も持たないように見えるのです。ただの小さな行動。ただの偶然。そう思えてしまう。
でも、人生はずっと後になってから、その点と点を、ていねいに繋いでくれます。あのとき泣いたこと。あのとき勇気を出したこと。あのとき「やってみたい」と口にしたこと。その一つひとつが、ずっと先の未来で、一本の線になって立ち上がってくる。僕の原田コーチとの出会いは、まさにその証拠です。
だからこそ、僕は思うのです。今のあなたが撒いている種が、たとえ今は何の芽も出していなくても、それを「無駄だった」と決めつけないでほしい。今は、ただの点でいいのです。その点に意味が宿るのは、もっとずっと後のこと。あなたにできるのは、ただ、今日も一つ、小さな点を打つことだけ。その点が、いつかどんな線になるのかは、未来のあなたが教えてくれます。
今は、ただの点でいい。意味は、後からついてくる。だから今日も、僕は1ミリだけ、点を打つ。
原田コーチとは、今も繋がっています。
原田コーチは、今は中学校の先生をしています。競技の現場を少し離れても、僕たちの繋がりは、途切れることがありませんでした。そして——これは僕にとって、本当に胸が熱くなることなのですが——2026年に挑む富士山のふもとでのトライアスロン、そのガイドを、原田コーチがまた務めてくれることになっています。
考えてみてください。テレビの女の子のコーチとして、僕の競技人生の入口に立っていてくれた人が、十年以上の時を経て、また僕の隣を走ってくれる。最初の表彰台のガイドだった人が、これからの挑戦のガイドにも、なってくれる。これを運命と呼ばずに、何と呼べばいいのでしょう。僕は本当に、人に恵まれた人間だと思います。
僕がよく言う言葉に、「繋がりの輪の中で挑み続ける」というものがあります。僕は、自分の力だけで何かを成し遂げてきたとは、ひとつも思っていません。あのテレビの女の子に火を灯してもらい、原田コーチに手を引いてもらい、盲導犬たちに支えてもらい、家族に支えてもらい、応援してくれる人たちに背中を押してもらって、ようやく今ここに立っています。僕は、たくさんの人に支えられて、繋がる輪の中で、これからも挑み続けていく。それが、僕という人間の生き方です。
原田コーチ、いつもありがとうございます。あなたが「大丈夫ですよ」と言ってくれたあの日から、僕の世界は始まりました。2026年、また一緒に挑めることを、心から楽しみにしています。
最後に、この手紙を読んでくれているあなたに、伝えたいことがあります。
あなたには今、やってみたいことがありますか。でも、「自分なんかが」と、その一歩を止めてしまっていませんか。問い合わせのボタンの前で、メールの送信ボタンの前で、電話のコールが鳴る前で、僕がそうだったように、指を震わせていませんか。
もしそうなら、僕は声を大にして言いたいのです。どうか、その問い合わせを、送ってみてほしい。完璧な準備なんて、いりません。上手な言葉も、いりません。ただ、今のあなたを、まっすぐに伝えるだけでいいのです。「やってみたいんです」「受け入れてもらえますか」。その正直な一言が、あなたの運命の扉を叩く音になります。
もちろん、いつも「大丈夫ですよ」という返事が返ってくるとは限らないかもしれません。でも、たとえそうでも、勇気を出して送ったという事実は、消えずにあなたの中に残ります。それは、未来のどこかで繋がる、大切な一つの点になる。僕は、それを信じています。
見えなくなった僕でも、震える指で一本の問い合わせを送れました。だから、あなたにも、きっとできます。今日、ほんの1ミリでいい。前に出てみてください。その1ミリの先で、あなたを待っていてくれる「原田コーチ」のような誰かに、いつかきっと出会えるはずですから。
あなたの一歩を、繋がりの輪の中から、僕はずっと応援しています。最後まで読んでくれて、本当にありがとうございました。
「一歩踏み出して送った、たった一本の問い合わせが、運命の出会いを連れてきた。点と点は、後で繋がる。僕は、支えられて、繋がる輪の中で挑み続ける」
2026年9月13日、IRONMANジャパンみなみ北海道(225.8km)に挑みます。この挑戦は、支えてくれる人たちと一緒に作る物語です。日々の練習やレースの様子を発信しているので、そばで見届けてもらえたら嬉しいです。
中澤の挑戦を、これからも見届けてもらえたら嬉しいです。日々の練習やレース、盲導犬シュクレとの暮らしを発信しています。
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RYU NAKAZAWA | 視覚障害B2 パラトライアスリート・プロ講演家
盲導犬シュクレと共に、1ミリの行動を続ける人